佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の「九州の王権」と年号(その一)~(その三)の三つの論文によって、5世紀から7世紀初めにかけての日本の歴史の骨格を、私達は知ることができる。この文書は、この三つの論文と「九州年号」についての要点を、「日本古代史の復元」ホームページ作成委員会がまとめたものです。
佃氏は『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『宋書』、『隋書』、『旧唐書』(記紀、続日本紀はよく知られているため、この小論では以降『』を付けずに表記します)などはもとより、様々な古文献や古墳から発掘された考古学的資料などを基に考察している。その考察では、歴史的事象の時を特定したり、王権の交代などを検討することなどに、いわゆる「九州年号」と呼ばれているものが実に‘導きの糸’として有効に使われていることに驚かされる。そこで、既存の歴史学では「私年号」などとも呼んでいる「九州年号」に対する、私達作成委員会の捉え方をまず明記することから始めたい。
記紀には年号が三つだけ記載されている。古事記には全くなく、日本書紀だけに「大化」、「白雉」、「朱鳥」の年号が突然出てくる。巻第25孝徳紀で「…大化元年(645年)とす。大化元年の秋七月の…」と「大化」年号表記が初めて現れる。しかし、年号を初めて建てるというような記述はない。次は、同じく巻第25孝徳紀に「白雉元年(650年)の春正月の…」と「大化」に続くとされる「白雉」年号が現れる。次は、巻第29天武紀の天武14年12月の記事の後に「朱鳥元年(686年)の春正月に…」と「朱鳥」年号が現れる。他には全く出てこないので、様々な疑問が浮ぶ。まず、日本の年号は「大化」を最初としていいのか?「大化」、「白雉」と続くとして、「朱鳥」までの数十年間は年号が制定されていなかったのか?「朱鳥」以降持統紀には年号はなかったのか?……
日本書紀に続く続日本紀では、巻第1で年号の表記がない文武天皇の4年間が記述された後、巻第2で文武天皇5年目の3月に「元を建てて大宝元年としたまふ。」と書かれ、文武天皇の最初の年号「大宝」(701年~705年)が表記される。「大宝」以降は現在まで年号は続いている。
古代年号について、古田武彦氏は『失われた九州王朝』の中で、『海東諸国紀』、『麗気記私鈔』、『如是院年代記』、『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)などに言及して、『襲国偽僣考』を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が述べた「九州年号」の重要性を指摘した。
『海東諸国紀』は李氏朝鮮の碩学が15世紀に撰録した史書である。『海東諸国紀』(岩波文庫)のはしがきには次のように書かれている。「『海東諸国紀』は、朝鮮王朝最高の知識人が日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情等を克明に記述した総合的研究書である。1471年に朝鮮議政府領議政申叔舟(シンスクチュ)が王命を奉じて撰進した書物で、海東諸国(日本と琉球)の国情と、その朝鮮との通交の沿革を記し、さらに使人接待の規定を収めている。本書に記された使人応接の規定は日朝間の通交を長く規制したものであり、実務書として果した役割も少なくなかった。」
「議政府領議政」は首相に相当する最高の官職であり、申叔舟(シンスクチュ)はハングルを制定した世宗(セジョン)以降世祖(セジョ)など6朝に仕えている最高の知識人である.
この『海東諸国紀』を読むと、「日本国紀」の「天皇代序」の部分で、初代神武天皇から102代後花園天皇までのことが年代順に簡潔に記述されている。26代継体天皇の項では「…(継体)16年(522年)壬寅、始めて年号を建て善化と為す。…」と書かれている。継体16年(522年)に、日本の年号が初めて建てられたことが示され、以降の天皇の年号がすべて記載されている。続日本紀に書かれている「大宝」から「延暦」までの14の年号が正確に記載されているだけではなく、以降も15世紀の「応仁」、「文明」まで、正確に日本の年号が書かれている。(南北朝については、北朝の年号を記載)日本書紀は、持統11年(697年)8月に、天皇が皇太子に譲位する記事で終わる。前に見たように、日本書紀では、持統11年(697年)までに断片的に三つの年号だけが現れ、他には年号の記載はない。古事記には、年号の記載は全くない。しかし、継体16年(522年)以降の日本の古代年号が、隣国朝鮮の最も信頼されるべき本の中に書き続けられている。
朝鮮の『海東諸国紀』だけでなく、『二中暦』(鎌倉時代の百科事典)や上に揚げた日本の古文献にもこの古代年号が記載されている。その中の『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は豊後国臼杵生まれの江戸後期の学者で、研究領域は多岐に渡っている。10代の頃から本居宣長に触発された古書・古文献の注釈、西洋の天文学(地動説)・物理学、言語学等を研究する他、アメリカ海軍司令官ペリーが来航したとき水戸侯斉昭に「異国船の儀に付内分申上候書付」を呈上し、嘉永7年(1854年)日米和親条約が結ばれた直後に「新町開発存寄書」を記し、社会改革にも言及している。
鶴峯戊申はその著書『海西漫録』の中の「倭錦考証」の項で、「…但し魏志に倭王とあるは、我天皇の御事にあらず、倭王とは九州にて僭偽せしものをいへる事、戊申が『襲国偽僣考』に記し置きたるが如くなるべし、…」と述べ、「武王上表」の項では、「宋書に載る所の、倭の武王の上表は、けだし偽僭襲人の作れる所也、その我朝廷を蔑にして、外を慕う意まことに悪むべしといへども、此文章は上宮太子の憲法に先だつ事、一百二十八年のむかしに書る処也、…これをもても、九州の地方にはやくより漢風の盛なりし事を推べし、…なほくはしくは『襲国偽僣考』にあげつらへり、…其書のおもむきは、在昔我皇国にて、偽僭をなしたる熊襲の先は、そのかみ我西鄙に逃来りし呉王夫差の子孫にして、其勢ようやく強大にして、身に錦繡をよそひ、居に城郭を築き、朝廷に先だちて漢の文字を取あつかひ、僞て王と稱し、漢及三韓に通じ、暦を作り、銭を鑄たる考、倭と云國号も襲人の建たる所、九州年号と云るも、襲人のしわざなるべきよしを辯じ、且又倭字を皇國の國號の假字に用ひ、皇國を呉太伯の後也と云に至るは、もと襲人を皇國に混じたるより起れる非が事なる由を、すべて和漢古今の諸書に徴して、明細にさとせる也。」と述べている。(『鶴峯戊申の基礎的研究』桜楓社、藤原暹著)
「魏志(倭人伝)に倭王とあるは、…倭王とは九州にて僭偽せしもの」であり、「倭の武王の上表(文)は、けだし偽僭襲人の作れる所也」と述べ、天皇の系統とは別の「呉王夫差の子孫の襲人」が王を称し、漢や三韓に通じ、年号を定めている、と戊申は言っている。更に、「九州年号」と題した古写本があり、これを見て、それに基づいて、「善記」から「大長」まで続くこの「襲人」の国の古代年号を「九州年号」と述べた。(『海東諸国紀』では、最初の年号は「善記」ではなく「善化」と記している。年号表記は古文献によって少し違いがある。)
この「九州年号」と呼ばれた古代年号を、歴史学会は「私年号」などと呼び、無視している。「九州年号」を認めてしまえば、大和朝廷以外に、年号を認めさせ支配をしていた王権が実在していたことになり、記紀の記述に反するからである。
最初に「善記」が建てられ、継体16年(522年)から始まるこの古代年号を鶴峯戊申によって「九州年号」と呼ぶようになったこと、朝鮮の史書や日本の古文献に記載されている「九州年号」は無視されるのではなく、考慮に値するのではないかということは、以上で納得していただけるのではないかと思う。更に私達は次のことから、「九州年号」を考察することがどうしても必要であると考えている。
奈良にある有名な法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘に書かれている年号「法興」は『襲国偽僣考』にある「九州年号」である。(※1)また、続日本紀の神亀元年冬十月条の記事に書かれている年号「白鳳」と「朱雀」も「九州年号」である。その他各地での古文書などにも「九州年号」が記載されている。「九州年号」が偽作などではなく、その時代に明らかに流布されていたものであることが確認できる。大和朝廷かどうかは別にして、年号が使われていたという事実は、その時代その地方を確かに統治していた権力が存在していたという事を示している。
既存の日本古代史の定説では、『宋書』倭国伝に記されている「倭の五王」讃・珍・済・興・武は大和朝廷の天皇であり、倭王武は雄略天皇であるとし、他の讃・珍・済・興については、諸説があり、確定していないとする。このことに対して、上に述べたように鶴峯戊申は、「倭の五王」の倭国は、大和朝廷とは別の「偽僭襲人」の国であり、「九州年号」はその年号であるとしている。「倭の五王」が本当に大和朝廷の天皇であったのかを明確にするためにも、「九州年号」の詳しい検討が必要ではないだろうか。
以上「九州年号」と呼ばれているこの古代年号を「私年号」として無視するのは、日本古代史の在り方として適切でないことを述べた。もちろん、『海東諸国紀』や『襲国偽僣考』に書かれていることをすべて正しいと認めることではない。記紀や他の古文献、古墳などから出土する考古学的資料などと比較検討しながら、史実を反映している日本古代史の建設に向け、「九州年号」も十分に活用していかなければならないというのが、私達作成委員会の立場である。
ついでながら、次のことも確認しておきたい。私達は主に8世紀くらいまでの日本古代史を検討していて、大和朝廷がどのように成立してきたかも考察している。しかし、このことは、現在の天皇制に対する政治的な立場とは直接関係しないと思っている。イギリスの王室よりはるかに長い歴史をもつ日本の天皇制は、その時代ごとに役割を果してきた。現在の天皇制に対する政治的な見解は、現在の政治状況等から判断されることであり、古代の歴史がどのように作られてきたかは、直接には影響しないと考える。
私達は、古代において日本人がどのように形成されてきたかに興味がある。既存の日本古代史は、どう考えてみても納得のできるものではない。今後の日本人が国際社会の中でどのように生きていくのか、日本人の生き方に、歴史の究明が深いところでつながっていると考えている。そのために、祖先の足跡をしっかりと確認したいと願っている。
(※1)「法興元丗一年歳次辛巳十二月…」で始まる釈迦三尊の光背銘の最初の「法興」は年号と考えられる。『上宮聖徳王帝説』(東野治之校注、岩波文庫)は、「法興は崇峻四年(591)を元年とする年号で、伊予道後温泉湯碑にも「法興六年」とあり、「法興元丗一年」は法興の元号の三十一年という意。」としている。
一方、この年号を認めない論者の一人田中英道氏(東北大学名誉教授)は「法興元(のりのおこりのはじめのとしより)丗一年(31ねん)」(『聖徳太子本当は何がすごいのか』(p.75)(田中英道著、育鵬社))と記して、「法興」は年号ではないとしている。
私たちは、「法興」は江戸時代後期の学者鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に出てくる「九州年号」であり、「(仏)法が興る」という意味だから、将にこの時代にふさわしい年号と考える。
田中英道氏からは、日本美術史や縄文文化、戦後のOSS文書について多くを学ばせていただいた。『写楽は北斎である』の論考も妥当なものだと考えているし、西洋美術史の研鑽によって培われた卓越した力量は尊敬に値するものだと思っている。だが、『国民の芸術』(田中英道著、産経新聞社)のp.111で「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」と述べ、中国の文献だから認めないという姿勢に立っており、これについても認めがたい。
田中氏は一流の学者であり、私たちが簡単に批判できる相手ではないのだろうが、「法興」年号や魏志倭人伝以外にも、首を傾げたくなるような議論がある。
『高天原は関東にあった』という著書の中で、縄文時代の土偶について述べている部分である。
土偶はダウン症や眼病などの異形人の姿であり、近親相姦のために、「虚弱な子孫の誕生への反省とその原因の究明の長い過程があったと考えられ、」「そこに至るまでの恐ろしい経験が人類史にあり、それが土偶という形で、鎮魂という形、崇拝という意味で表現されていたと考えられる。」(同書p.28)と、レヴィ・ストロースの言説や外国の事例を多数揚げて、述べている。
最近出版された『土偶を読む‐130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著、晶文社)を読むと、田中氏の解釈がいかに無理があるかが、よく分かる。竹倉氏の著書は縄文時代について目を見開かれる思いのする本であるが、興味がある方は是非読み比べていただきたい。