Ⅱ.「九州の王権」と年号(その二)-「物部麁鹿火王権」と本拠地-(「物部氏」の研究)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(63号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。

 

 『古事記』が天皇家の氏族伝承をまとめたものとすれば、『先代旧事本紀』(10巻本)は物部氏の氏族伝承を伝えている。江戸時代中頃より異端の書という説が流され、今日まで十分な評価がされていないと言われる本である。「九州年号」と同じように、他の古文献や考古学的資料と共に活用し総合的に判断していくという、佃氏の立場に賛成である。『先代旧事本紀』(以下、『旧事本紀』と略記する)を抜きに、物部氏の研究はできないのではないだろうか。
 既存の古代史では、「有力氏族である物部氏は軍事を中心に大和朝廷の中でどのような役割を果たしたのだろうか。」という観点から、物部氏が論じられる。しかし、「九州の王権」と年号(その二)、(その三)を読むと、それまでの物部氏の見方は一変する。


<1章> 「物部麁鹿火王権」

 

 倭王武の上表文に「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海平を平らげること95国」とあるように、倭国は日本列島の大部分と朝鮮半島の国々を支配していた。この倭王が家臣の大連物部麁鹿火によって伐たれた事件が「磐井の乱」であった。継体天皇は、「長門より以東は朕これを制す。筑紫より以西は汝これを制せよ。」と物部麁鹿火に述べた。(日本書紀)新たに「筑紫より以西」の支配者になったのは、物部麁鹿火である。また、前に見たように、継体天皇は実際には倭国の将軍か何かで、権力を持っていない。物部麁鹿火が(九州)年号をもつ新王権を樹立している。この王権を「物部麁鹿火王権」と呼ぶことにし、この章では「物部麁鹿火王権」の基本的事項を整理する。

 

 『旧事本紀』巻第3天神本紀で「天つ物部等二十五人。同じく兵杖を帯びて天降り供奉る。」とあるように、「天火明命」(あめのほあかりのみこと)は「天つ物部」などを従えて、天下る。「天つ物部」には鞍手郡を中心とする北九州の地名が多くついていることなどから、物部氏は「天火明命」を守りながら渡来して、北九州に住み着いていることが分かる。次に、『旧事本紀』巻第5天孫本紀を見て、物部氏の系譜を検討する。日本書紀に書かれているように、12世物部木蓮子物部麁鹿火に娘(宅媛)を差し出していること、13世物部尾輿物部麁鹿火と同世代人であること、物部守屋物部麁鹿火と同世代であるはずがないこと、などから『旧事本紀』の系図の誤りを指摘し、整合性がある系図に復元する。更に、日本書紀の記事から、筑紫君葛(磐井)の子や12世物部木蓮子、13世物部尾輿などから順に領土(屯倉)を獲得していくことを確認し、物部麁鹿火が権力基盤を確立していく様子を示す。北九州に住み着いている物部氏の頂点の者には、名前の前に××世が付いている。しかし、物部麁鹿火には、××世が付いていないので、物部氏内では地位が高くないことが分かる。そのため、自分の力で次々に領地を確保し、権力基盤を確立して、年号をもつ北部九州の「天子」になっていく。

 

 日本書紀継体天皇の崩年を継体25年(531年)としている。ところが、日本書紀「(安閑)元年正月…(中略)是年、太歳甲寅。」と書かれている。太歳甲寅は534年である。継体天皇の次の天皇安閑天皇であり、即位が534年だと言う。日本書紀の記述では、継体天皇が531年に崩御した後の3年間がどこかへ消えてしまった。この間違えがどうして起ったかについての理由も、佃氏は指摘している。また、日本書紀安閑紀、宣化紀、欽明紀の記述は物部麁鹿火王権についての記述であることを、記事に即して示している。安閑紀、宣化紀、欽明紀の始まる年が物部麁鹿火王権の「九州年号」である「殷到」-「僧聴」-「明要」の始まる年とほぼ同じことも、このことを示唆しているのではないだろうか。(次章の表参照)

 

 日本書紀「継体23年(532年)4月、毛野臣、熊川に次(やど)りて新羅百済の王を召し集む。」と記されている。532年に「毛野臣」は、新羅百済の王に天皇の詔を伝えるために朝鮮半島に渡る。ところが王は来ず、逆に新羅の使者が兵三千を率いて来たことに「毛野臣」は恐れをなして任那に逃げ、結局金官を含む四村が新羅に侵略される、という事件である。531年までは倭王(筑紫君)が朝鮮半島の国々を支配していた。532年だから、「磐井の乱」で新たに王となった物部麁鹿火が、倭王に代わって、朝鮮半島に乗り出す。「毛野臣」は麁鹿火王権の詔を伝えに行くが、物部麁鹿火王権の実力を新羅百済に見破られて、逆に任那の一部を失うことになったと、佃氏は事件の真相を語る。物部麁鹿火朝鮮半島の支配に失敗している。

 

 次に、物部麁鹿火王権の本拠地と古墳についてまとめる。物部麁鹿火は筑紫君葛の子から糟屋屯倉(多々良川の南側)を得、12世物部木蓮子から難波屯倉(多々良川の北側)を得て、多々良川を含む領域を確保している。物部氏の中では地位が高くない麁鹿火は、九州物部氏が支配する遠賀川を避け、多々良川の水利権を手に入れ、多々良川上流の嘉穂郡桂川町に本拠地を定めている。桂川町にある「桂川王塚古墳」は物部麁鹿火の墓であるとする。この古墳の石室は遠賀川流域では最大であり、作られた時期、装飾、副葬品などから、まさに麁鹿火の墓にふさわしい。
 尚、度々出てくる多々良川河口にある「難波」は大阪にあるのではなく、筑前国宗像郡にあることを、続日本紀、『続日本後期』などの記事からも確かめている。
 最後に倭王権(筑紫君)の支配領域が九州~関東、出雲~越の日本海側、朝鮮半島南部であったのに対して、物部麁鹿火王権の支配領域は「筑紫より以西」(筑前肥前)のみで、大きな支配領域を確保していないことを確認する。

 


<2章> 「任那復興」と「任那日本府

 

 日本書紀巻第19欽明紀は、最初の数ページで即位した経緯、妃、皇子、皇女等について記述し、後はほとんどすべて朝鮮半島の出来事を記述している。ページ数で言うと、小学館日本書紀」では、「欽明紀」は100ページを超えている。一方、古代史最大の戦いといわれる「壬申の乱」は巻第28「天武天皇上」に詳しく述べられているが、「天武天皇上」のページ数は同じく小学館日本書紀」では50ページに満たない。日本書紀を読んでいくと、この「欽明紀」の異様な長さに驚かされるが、いかに多くのページ数が割かれているかが改めて確認できる。日本書紀は「任那復興」を「壬申の乱」と同様に最も重要視していると言うことができる。これに対して、「日本の歴史学」は「任那復興」を余り重要視していないとして、佃氏は「日本の歴史」を解明するためにも、「任那復興」の重要性を認識して、しっかりと解明すべきであると提言する。

 

 難解な「任那復興」を理解するために、最初に問題を整理する必要がある。562年、最終的には新羅任那を滅ぼし、10カ国を得る。その前に、532年「毛野臣」が3千の兵の新羅を恐れたため、南加羅金官加羅)が新羅に奪われる。また、540年までにとく己呑(とくことん国)・卓淳国の2国が新羅に奪われる。計3カ国が新羅に奪われた。日本書紀の以上の記事より、任那朝鮮半島南部にある南加羅加羅国、安羅国等13カ国の総称であることが、まず確認できる。任那各国には代表者(旱岐等)が居るが、その上に「任那の執事」、「日本府の執事」がおり、「任那日本府」は安羅国に設置されていることが日本書紀の記事から分かる。日本書紀欽明5年(544年)3月の記事では「…それ任那は安羅を以って兄と為し、唯その意に従う。安羅人は日本府を以って天と為し、唯その意に従う。…」とある。任那諸国は、「任那日本府」の支配下にある。531年までは、任那の13カ国は、「任那日本府」の支配下にあり、その後、3カ国が新羅に奪われている。

 

 次に「任那日本府」が設置された経緯を調べる。日本書紀と『宋書』の記述より、451年~464年の間に設置されたことを確定する。『宋書』に、宋王朝倭王済に対して「安東将軍」に「使持節都督、倭、新羅任那加羅、秦韓、慕韓6国諸軍事」を加えた、という記事がある。この記事と、倭王興の在位年462年~477年などから考えて、倭王興の前の倭王済が451年~461年の間に設置したと考えるのが妥当であると判断している。

 

 (欽明)2年(541年)4月、安羅・加羅等の任那各国の代表者達と任那日本府吉備臣は百済に行き、(日本の天皇の)詔書を聴く。「百済聖明王任那の旱岐等に謂いて言く、『日本の天皇の詔する所は、全てを以って任那を復建せよとなり。今、何の策を用いて任那を起こし建てむ…』という。」と記されている。更に、聖明王は「お前達と力を合わせ、心を一つにして、天皇の威力をこうむれば、任那は必ず復興するだろう。」と言い、各々に応じて贈物をしたので、皆喜んで帰った、と日本書紀には書かれている。これが、「任那復興」の始まりである。南加羅・とく己呑(とくことん国)・卓淳国3カ国を新羅から奪い返すことが、「任那復興」である。

 

 ところが、早くも同年(欽明)2年(541年)7月「安羅の日本府と新羅は計(はかりごと)を通(かよわ)す」とある。「任那日本府」の「河内直」は「任那復興」を妨害している。百済は、「任那日本府」に居る4人が妨害するので「任那復興」ができない、早く任那から4人を追い出し、本国に返してくれと何度も要求する。「欽明5年(544年)11月、又吉備臣・河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都、猶任那国に在れば、天皇任那を建て成せと詔すると雖も得ることは出来ないであろう。請う、此の四人を移し、各其の本の邑に還し遣わせ。」と聖明王は策を述べる。

 

 「任那日本府」は「日本の天皇」に従うのではなく、妨害している。この理由を明確にするために、少し寄り道をして、「宿禰」、「連」について整理する。記紀の記事の考察から、「宿禰」は貴国(364年~407年頃)の称号であり、「大連」「連」は倭王権(筑紫君)の称号であり、物部麁鹿火王権になっても使い続けられたことが分かる。(尚、後の684年に天武天皇によって、「八色の姓」が整理されたことにより、「宿禰」、「連」は姓(カバネ)となった。)
 「任那日本府」の「吉備臣」は、吉備から倭王(筑紫君)によって、任那に派遣されている。また、「佐魯麻都」は大連であるので、倭王権(筑紫君)の臣下である。このように、「任那日本府」の官吏たちは、倭王権(筑紫君)が派遣し、「任那日本府」は、約100年間任那諸国を支配してきた。

 

 次に、「任那復興」は「日本の天皇」の詔から始まっているが、この「日本の天皇」について整理してみる。その前に、『襲国偽僣考』の記述から、物部麁鹿火王権の年号を整理し、殷到(531年~535年)-僧聴(536年~540年)-明要(541年~552年)とする。日本書紀「(欽明)元年(540年)9月、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稲持・物部尾輿等、従う。天皇、諸臣に問いて曰く、『幾許の軍卒をもて新羅を伐つことを得るや』という。」この天皇は、540年であるので、物部麁鹿火王権の2代目である。2代目は、どれだけの軍勢があれば新羅を伐てるかと、群臣に問うている。直接、実力で新羅を伐つ事を考えている。その後の「任那復興」が始まるときの「日本の天皇」の詔は、(欽明)2年(541年)4月であるから、物部麁鹿火王権の3代目ということになる。「任那復興」は、3代目が即位した直後に企てられている。3代目は、「任那復興」の詔を百済聖明王に伝えてもらっている。百済の力を借りて、新羅を伐とうとしている。2代目と3代目の考え方が全く異なる。

 

 「任那復興」は「日本の天皇」が直接、任那諸国や「任那日本府」に命じて行なわれたのではなく、百済聖明王を通して行われている。「任那日本府」を設置したのは、倭王権(筑紫君)であり、「任那日本府」の官僚は倭王権が派遣して、そのまま残っている。物部麁鹿火王権は、倭王権を倒したが、朝鮮半島支配には失敗しており(「毛野臣」の事件)、「任那日本府」や任那諸国を支配できずにいる。そのため、「任那日本府」や任那諸国に直接命令できないのだと、佃氏は明らかにする。更に、「任那日本府」の官僚たちにとっては、このときの「日本の天皇」である物部麁鹿火王権は主君である倭王権(筑紫君)を伐った憎い存在であった。

 

 百済高句麗と戦争になり、百済が危うくなる。新羅高句麗と手を結び、百済を滅ぼそうとする。欽明15年(554年)12月聖明王は戦死する。日本書紀「(欽明)23年(562年)春正月に、新羅任那の官家を討ち滅しつ。」とあり、遂に新羅によって任那は滅ぼされる。任那日本府が設置されてから、百年以上任那南朝鮮)は日本の支配下にあった。これによって、朝鮮半島で直接支配する国は無くなる。やはり日本にとって大問題である。この部分の日本書紀の記述は、生々しさを感じる。

 

 強大な力を持ち、朝鮮半島を支配した倭王権に対して、「任那日本府」さえ支配できない物部麁鹿火王権の力は弱い。これが、「任那復興」が終焉した理由である。
 佃氏の叙述の通りに、実際に朝鮮半島に力を及ぼした倭王権(筑紫君)、物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)とそれぞれの「九州年号」、そして日本書紀が述べる天皇を示す表を作ってみた。

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 ※ この表では、「雄略」と「継体」の間には、「清寧」「顕宗」「仁賢」「武烈」が入るが、スペースの関係から省略した。また、「継体」と「安閑」の間は、本文で少し触れたように、日本書紀には記載がないので「?」としておいた。表の中に文字を入れる関係から、表の幅は必ずしも年の長さに対応していないので、この点はご容赦を願います。

 

 この表を見ると、日本書紀倭王興の事績を雄略紀として記述し、倭王武の事績を継体紀として記述しているのがよく分かる。年代的に重なっているからである。倭王権-物部麁鹿火王権-阿毎王権と続く三王権の実際の朝鮮半島での出来事を、大和朝廷の出来事として、日本書紀は述べる。欽明紀はほとんどが「任那復興」に関する記事であるが、物部麁鹿火王権の2代目の朝鮮半島への対応、3代目の朝鮮半島への対応、阿毎王権初代(物部尾輿)の朝鮮半島への対応を、すべて欽明天皇一人の事績として述べている。これでは、「任那復興」は超難問になる。欽明紀が異様に長くならざるを得ない理由も、ここにあるのだろうか。

 


<3章> 「大和の物部氏」と「九州の物部氏」(「物部氏」の研究)

 

 『旧事本紀』巻第5天孫本紀は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、亦の名は天火明命…亦は云う饒速日命…」が「…天神御祖の詔を禀(うけ)て天磐船に乗て天降まして河内国の河上哮峯(かわかみのいかるがのたけ)に坐す。即ち遷て大倭国鳥見白庭山に坐す、天降之儀は、天神紀に明なり。」と述べることから始まる。

 

 古事記では「…此の御子の、高木神の女、万幡豊秋津師比売命に御合して、生みし子、天火明命、次に、日子番能邇邇藝命、二柱ぞ。」とある。さらに、「邇邇藝命(ににぎのみこと)」は「竺紫の日向」(ちくしのひなた:福岡市西区)に天孫降臨したと述べている。1章で触れたように、紀元前2世紀末頃、「天火明命」は北九州に天孫降臨する。一方、日本書紀神武即位前紀では、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」は、「天の磐船に乗り」、「天より降る」とある。神武東征は3世紀中頃の出来事であるから、3世紀中頃に「饒速日命」は「長髄彦(ながすねひこ)」の妹御炊屋媛を娶り、「可美真手命(うましまでのみこと、宇摩志麻治命)」を生む。この「宇摩志麻治命」は、舅の「長髄彦」を殺して、神武天皇に帰順し、神武東征は成功する。「饒速日命」と「長髄彦」や「宇摩志麻治命」との関係では、日本書紀と『旧事本紀』は全く同じ内容を記している。
 尚、この日本書紀神武即位前紀の記事では、続けて「…饒速日命…此物部氏が遠祖なり。」とも記されている。

 

 「天火明命」は紀元前2世紀末頃、北九州に天孫降臨する。一方、神武東征の少しだけ前の紀元3世紀中頃に「饒速日命」は「河内国の河上哮峯」に天降る。『旧事本紀』は500年ほど隔たりのある二つのことを一つのことにしてしまっているとして、まず、『旧事本紀』の誤りを指摘する。そのため、名前も「天火明命」と「饒速日命」の二人の名を重ねて「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」としているとし、『旧事本紀』は誤りが多いと、佃氏は述べる。

 

 日本書紀では、「饒速日命」は「物部氏が遠祖」であると書かれている。『旧事本紀』でも、物部連等の祖は、「饒速日命」の子の「宇摩志麻治命」であると書かれている。そこで、佃氏は『旧事本紀天孫本紀に書かれている系譜を丹念に考察していく。「宇摩志麻治命」から始まる系譜の名前の表記を見ると、7世までは「物部」が付いていない。ところが、8世以降は「物部」が付いている。6世に属する「伊香色雄命」、7世に属する「十市根命」、8世に属する「物部膽咋宿禰」や11世に属する「物部目大連公」などについての日本書紀や『旧事本紀』の記事の内容に着目する。7世までは、「石上大神」の記述などから、大和での出来事が記されているので「大和の物部氏」であり、8世以降は、「筑紫聞物部大斧手」の記述などから九州の出来事が記されているので「九州の物部氏」であることをつきとめる。

 

 物部氏には、日本に渡来した時期、地域によって二通りの物部氏がある。「大和の物部氏」と「九州の物部氏」である。「天火明命」は「天つ物部等二十五人」を従えて、北九州に天下る。物部氏は「天火明命」を守りながら渡来して、北九州に住み着いている。紀元前2世紀末のことである。これが、「九州の物部氏」となっている。
 一方「大和の物部氏」の遠祖は「饒速日命」である。「饒速日命」は紀元3世紀中頃、「河内国の河上哮峯」に天降る。子の「宇摩志麻治命」は神武天皇に帰順し、神武を大いに助けて、大和に居住し、その子孫達は「大和の物部氏」となる。

 

 これらの考察を更に進めて、佃氏は『旧事本紀』の問題点も指摘している。まず、7世までの物部氏は「大和の物部氏」であり、8世以降の物部氏は「九州の物部氏」であるので、7世から8世につながる親子関係は成り立たないことを指摘する。また、物部氏の名前の後につく「宿禰」、「連」の考察から、「連」は倭王讃が最初に制定したと判断できるので、9世に属する「物部五十琴宿禰連公」より前の物部氏の名前に「連」がついているのは、『旧事本紀』の編集者が、当時の知識から判断して、遡って付けたのではないか、と指摘する。

 

 それでは、この「大和の物部氏」と「九州の物部氏」がどのように繋がるかについては、古墳から明らかになる。「大和の物部氏」の始祖である「饒速日命」の墓は、箸中古墳群の中の「ホケノ山古墳」であると考えている。この古墳の作られた年代は3世紀中頃であり、「石囲い木槨墓」である。この埋葬施設は、韓国蔚山(ウルサン)・中山里古墳(2世紀末~3世紀前半)に酷似しているという。更に、韓国蔚山弥生式土器は、遠賀川以東様式が主体をなす、と研究者が述べている。九州の遠賀川以東には、「天孫降臨」のときに高天原から「天火明命」に従って「九州の物部氏」が渡来している。

 

 「天氏」と「物部氏」は「高天原(韓国泗川)」に住んでいた。「天孫降臨」のとき、物部氏の一部は、「天火明命」とは行動を別にして、「高天原(韓国泗川)」から蔚山(ウルサン)へ逃げたのではないか。そのため蔚山では、北九州に天下った「九州の物部氏」と同じ遠賀川以東様式の弥生式土器が使われている。この数百年後の220年~230年頃、「卑弥呼」は朝鮮半島倭国(卑弥国)から北部九州へ逃げてくる。この時期、朝鮮半島南部では公孫氏による大規模な侵略、討伐が行なわれたのではないか。そのため、同じ220年~230年頃、この物部氏の一部(饒速日命)は、蔚山(ウルサン)から逃げて、大和に渡来し、「大和の物部氏」の始祖となる。そして、死去するとき、故郷蔚山の墓と同じ「木槨墓」に埋葬された。ともに「天氏」を守る「物部氏」であるが、日本への渡来の時期、地域によって「九州の物部氏」と「大和の物部氏」となる。

 

 私達が勉強する際、『先代旧事本紀』だけでなく古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』(勉誠出版安本美典著)に書かれていることや表(P117)などが参考になった。安本氏にも感謝を表したい。

 


<4章> 「仏教伝来」と物部麁鹿火王権

 

 日本書紀には、欽明13年(552年)10月百済聖明王が釈迦仏の金銅像、幡蓋、経論を献上したという記事があり、これは仏教公伝とも言われている。一方、『元興寺伽藍縁起並びに流記資財帳』には欽明天皇の御世、「治天下7年歳次戊午(538年)12月」に聖明王が太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書を渡したと書かれている。また、『上宮聖徳法王帝説』にも欽明天皇の御世の戊午年(538年)に聖明王が「始めて像・経・教並びに僧等」を贈ったとある。仏教伝来は、「538年」説と「552年」説がある。論文の中で詳しく説明されているように、日本書紀の他の記事から、547年には百済から僧が来ていることが確認でき、「538年」説が正しく、「552年」説は誤りであると結論することができる。

 

 更に、『元興寺伽藍縁起』の「治天下7年歳次戊午(538年)」に注目し、誰の「治天下7年」であるかを考察している。欽明天皇の在位期間には「戊午年」はなく、「治天下7年」から宣化天皇にも当てはまらないとし、結局、物部麁鹿火が年号「殷到(教到)」を建てた年(531年)から数えて7年目と考えることができる。仏教伝来は、物部麁鹿火王権下での出来事である。前に日本書紀の記事から確認したように、麁鹿火は536年に死去するから、仏教伝来の538年は物部麁鹿火王権の2代目が即位して2年後に当たる。物部麁鹿火王権の2代目の年号は「僧聴」であり、仏教伝来と年号の意味とがぴったり合致している。

 

 日本書紀は「倭の五王」を「大和朝廷」の「国造」としている。しかし、「天子(治天下人)」は(九州)年号を建てている「九州王権」である。百済からの仏教伝来も、「治天下7年」と(九州)年号「殷到(教到)」を規準にして記述されている。「安閑天皇」「宣化天皇」「欽明天皇」は年号を建てることもできない「大和の豪族」である。日本書紀の呪縛から解放されるには、古事記の「崩年干支」と「九州年号」を研究すべきあり、そのことから物部麁鹿火や12世物部木蓮子物部尾輿が「九州の物部氏」であることが分かると、佃氏は最後に提言を述べる。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その二)-「物部麁鹿火王権」と本拠地-(「物部氏」の研究)】(63号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-