Ⅲ.「九州の王権」と年号(その三)-「俀国(阿毎王権)」とその歴史- (『隋書』の「俀国」は九州の物部氏)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(64号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。

 

 岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』は、1951年に発行された。その譯注『隋書』倭国伝の部分では、注で、「『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。」と書き、巻末の附録・原文では、9個ある「俀」(たい)の字をすべて「倭」(わ)の字に直した活字で記している。これに対して、1985年に発行された新訂版では、注で、「『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。附録、原文参照」と一部文言(傍線部分)を付け加え、巻末の原文には原書の影印を載せてあるため、9個の「俀」の字は「倭」と直されず、そのまま「俀」と書かれている。ただし、原書の影印では、文書の初めに「俀国」と表題が示されているにもかかわらず、この文書の表題は相変わらず「倭国伝」と記されている。文庫はすぐに手に入るので、誰でも確認することができる。私達は、「俀国」と「倭国」は違う国であるので、書き直すべきでないと考えている。

 


<1章> 阿毎王権(『隋書』の俀国)の誕生

 

 日本書紀欽明13年(552年)10月の記事では、百済聖明王が釈迦仏の金銅像、幡蓋、経論を献上したと述べられ、続いて、「天皇、聞き已(おわ)りて、歓喜し、踊り跳ね、使者に詔して云う、『朕、昔より来(このかた)、未だ曾(かつ)て是の如き微妙之法を聞くことを得ず。…』という。」と記されている。
 前の論文で考察したように、538年に百済聖明王が太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書を渡し、仏教は既に日本の天皇に伝わっている。また、仏教伝来は、物部麁鹿火王権の2代目の時で、年号は「僧聴」であった。更に3代目の時には、百済から僧7人が来ている。552年10月の記事では、天皇は「未だ曾(かつ)て是の如き微妙之法を聞くことを得ず」と述べ、「歓喜し、踊り跳ね」たとする。このことは、「552年10月」の天皇は、物部麁鹿火王権の天皇ではないことを示している。

 

 『襲国偽僣考』の年号を注意深く考察し、『如是院年代記』や『二中暦』の記述も参考にしながら、記された年号の重なり具合を読み解いていく。その結果、物部麁鹿火王権の年号は、殷到-僧聴-明要で終わり、後につながる年号はないことが分かる。また、倭王権(筑紫君)の年号は善記から始まり、善記-正和-定和-常色-…-法清-兄弟-蔵知-師安-知僧とつながっていく。これらに対して、『襲国偽僣考』の「九州年号」は、同一王権では全て在位年が重ならないように記されているにもかかわらず、年号「貴楽(552年~569年)」は物部麁鹿火王権の年号「明要」(541年~552年)と552年が重なっている。このことから、貴楽-金光-賢棲-鏡常-勝照-政端-告貴-願転-光元と貴楽から始まる年号は、物部麁鹿火王権とは別の王権が誕生していることを示している。上に述べた、日本書紀の記事「552年10月」の天皇物部麁鹿火王権の天皇ではないことを、年号の上からも確認できる。

 

 次に、年号「貴楽(552年~569年)」から始まる新王権の本拠地を特定する。新羅の使者、肥後の芦北出身で百済の達率(第2位の高官)になった「日羅(にちら)」、新羅任那の使い、隋の「裴世清」に対する応対や接待について述べたいくつかの日本書紀の記事から、日羅や新羅任那の使いが泊まった「阿斗」は「飯塚市」であり、新羅任那の使いが安置された館の「阿斗の河辺」は遠賀川の川辺であり、この近くに都があり、この王権の本拠地は鞍手郡であると理解できる。鞍手郡物部氏の本拠地であることから、新王権は九州の物部氏である。

 

 『隋書』俀国伝は、俀国が600年に初めて隋に朝貢し、607年にも朝貢し、608年には隋から「文林郎裴清」が遣わされ、「…又竹斯国(筑紫国)に至る。又東秦国に至る。…又十餘国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆俀国に附庸す。」と記している。『隋書』は、俀国が「筑前」と「豊前」を支配していることを示している。「文林郎裴清」は「裴世清」である。俀国は鞍手郡物部氏であった。このことは、『隋書』の記述からも明確に分かる。『隋書』は、俀国では鵜飼をして魚を捕り、近くに「阿蘇山」があり、「その石は、故なくて火が起こり天に接する」火山であることを記述している。また、最初の地理的記述内容からも、俀国は九州にあり、どう考えてみても大和にはない。王の「多利思比孤」が隋の煬帝に対して「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云々」と述べた俀国は、鞍手郡を本拠地とする物部氏の国である。

 

 「倭の五王」の「倭国」は筑後の八女古墳群付近を根拠地として、410年頃から「磐井の乱」の終わる531年まで支配を続け、531年以降も物部麁鹿火王権の下で、年号を建て「筑紫君」として存続している。(前論文2章の表参照)一方、「俀国」は鞍手郡を本拠地とする物部氏の国であり、552年から636年まで支配を保ち、隋に朝貢している。「倭国」と「俀国」は全く別の国である。

 尚、既存の古代史は、岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』のように、「俀国」を認めず「倭国」としているため、「俀国」と書くと、「倭国」であると解釈されてしまう。そのため、佃氏は『隋書』俀国伝に書かれている俀王の姓「阿毎」をとって、「俀国」を「阿毎王権」と記す。

 


<2章> 阿毎王権

 

 物部麁鹿火王権に代わって誕生した「阿毎王権」は、鞍手郡を本拠地とする物部氏であるから、物部氏の頂点の者が「天子」となる。やや複雑であるので先に結論を述べる。552年に13世物部尾輿物部麁鹿火王権3代目から王権を奪い、「俀国」(「阿毎王権」)を確立する。その年号は貴楽(552年~569年)である。2代目は、14世物部大市御狩連公であり、その年号は金光(570年~575年)-賢棲(576年~580年)-鏡常(581年~584年)と続く。3代目は、15世物部大人連公であり、その年号は勝照(585年~588年)-端政-告貴-願転-光元(605年~610年)とできる。3代目の15世物部大人連公は、日本書紀に出てくる「押坂彦人大兄皇子」であり、『隋書』に出てくる俀王「多利思比孤」でもある。(前の論文2章の表参照)

 

 12世物部木蓮子大蓮は娘の「宅媛」を物部麁鹿火の妃にしている(日本書紀)から、当然「阿毎王権」の初代は13世以降ということになる。貴楽(552年~569年)が在位年であることや、物部守屋は14世物部大市御狩連公の弟であり、物部守屋が急に活躍し出すのが585年であることなどから、初代は13世物部尾輿以外には考えられない。(後でも述べるが、14世物部大市御狩連公が584年に死去し、兄が亡くなって急に物部守屋が活躍するようになる。)日本書紀は「倭王権(筑紫君)」、「物部麁鹿火王権」、「阿毎王権」を抹殺して、すべて大和朝廷の出来事として記述している。そのため、物部尾輿天皇になったとは書けないので、最後まで天皇の臣下として記述する。また、「阿毎王権」(俀国)は「仏教を敬う仏教国」であると『隋書』俀国伝に記されている。しかし、日本書紀では、物部尾輿は仏教の受容に反対したという記述をしている。これも日本書紀が記事を書き変えていると考えることができる。

 

 次に「阿毎王権」の2代目を考察する。前論文の2章の表で確認できるように、2代目の14世物部大市御狩連公の事績は日本書紀では敏達紀に記述される。ところが、日本書紀敏達紀は複雑であるので、佃氏はまず敏達紀を検討する。


 
 宣化天皇は「大和の豪族」であり、日本書紀敏達紀の最初に、敏達天皇の母は宣化天皇の女(娘)であると記されていることから、敏達天皇も「大和の豪族」であると思われる。しかし、それに続いて、「天皇、仏法を信(う)けたまはずして、文史を愛みたまふ。」とある。これは、「阿毎王権」が「仏教を敬う仏教国」であることに反している。どうしたことであろうか。また、天皇が(敏達)元年(572年)4月に百済大井に宮殿を造ったと述べ、(敏達)14年(585年)8月に天皇は死去したとしている。「百済大井」から、敏達天皇肥前国神埼郡の人であることが分かる。

 

 一方、古事記敏達天皇の崩年干支を示し、584年に死去したとする。この崩年干支が示す年は、阿毎王権の年号「鏡常(581年~584年)」の終わる年に一致している。また、14世大市御狩連公の弟の物部守屋が急に活躍し出す585年の前年に当たる。そこで、古事記が崩年干支を示しているこの敏達天皇は「阿毎王権」の2代目(14世大市御狩連公)であり、仏法を敬っており、鞍手郡を拠点とし、584年に死去したと考えることができる。

 

 前に、日本書紀百済大井に宮殿を造ったと述べる敏達天皇は、神埼郡の人であり、仏法を信じず「文史を愛み」、585年に死去している。日本書紀はこの2人の人物の事績を1人の敏達天皇の事績として記述している。そこで、「阿毎王権」の2代目としての敏達天皇を「敏達(阿毎)」と記し、百済大井に宮殿を造った敏達天皇を「敏達(百済)」と記して、区別する。「敏達(阿毎)」は「阿毎王権」の2代目である14世物部大市御狩連公である。他方、「敏達(百済)」は『新「日本の古代史」(下)』の中の論文「「九州の王権」と年号(その四)」で述べられているが、舒明天皇の祖父に当たる人物である。

 

 実際の敏達天皇は「大和の豪族」であると思われるが、日本書紀敏達紀では、「阿毎王権」の2代目である「敏達(阿毎)」(=14世物部大市御狩連公)の記事と「敏達(百済)」の記事が1人の敏達天皇の記事として記述されている。百済新羅、高麗など朝鮮半島の国々との交流を述べた記事などは「敏達(阿毎)」の記事である。一方、仏法を信じず「文史を愛み」という記事や百済大井に宮殿を造ったという記事、また「豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とす。」などの記事は「敏達(百済)」の記事である。

 

 3代目は15世物部大人連公であり、年号「勝照」を建て、2代目の14世大市御狩連公が584年に死去した翌年585年から「天子」となる。前に少し触れたように、この年から、2代目の14世物部大市御狩連公の弟で、15世物部大人連公の叔父である物部守屋が突然に登場して、天皇に対して無礼な口を利くようになる。兄が死去して、「阿毎王権」の王統が585年に2代目から3代目に代わる。叔父である物部守屋が甥である15世物部大人連公に対して横柄になったことは、王統が585年に代わったことに符合している。


 日本書紀は、「押坂彦人大兄皇子」は敏達天皇の子であると述べる。「敏達(阿毎)」の太子であるから、2代目の14世大市御狩連公の太子であり、3代目の15世物部大人連公ということになる。

 

 15世物部大人連公の後は、16世物部耳連公、17世物部連公麻呂と繋がっていくが、17世物部連公麻呂は天武天皇から「物部朝臣」の姓をもらっていることなどから、15世物部大人連公の在位は、勝照(585年~588年)-端政-告貴-願転-光元(605年~610年)であるとできる。すると、600年~607年まで隋に朝貢した阿毎王権の王「多利思比孤」は15世物部大人連公ということになる。15世物部大人連公=「押坂彦人大兄皇子」=「多利思比孤」である。


 隋の煬帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書を送っているのは、推古天皇でも聖徳太子でもなく、「阿毎王権」の3代目の15世物部大人連公である。「大人(たいじん)」の名は、100年程途絶えていた中国との交流を始め、隋の煬帝に対して自分は「日出る処の天子」であると対等に述べているこの「天子」の名にふさわしいのではないか。

 

 この他、佃氏は、他の記事と併せて「百済大井」は肥前神埼郡にあることを示すために、日本書紀の次の記事の説明をしている。日本書紀「皇極元年正月…乙酉に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より駅馬に乗りて来て言さく、『百済国、天皇崩りましたりと聞りて、弔使を奉遣せり。臣、弔使に随ひて、共に筑紫に到れり。而るに臣は葬に仕へまつらむことを望む。故、先ちて独り来り。然も其の国は、今し大きに乱れたり』とまをす。」佃氏から、次の様にお聞きしたことがある。「この記事は、大和朝廷が日本を支配していたとする歴史に、最初に強く違和感をもった記事です。」

 舒明天皇の葬儀に際して、百済に派遣されていた「阿曇連比羅夫」は百済の弔使と共に筑紫に来た。その後、葬儀に仕えたいので、先に「駅馬に乗」って、「独り」で筑紫から来たという。実際、都が大和にあるのなら、筑紫から「駅馬に乗」っていくことはできない。都は、筑紫から「駅馬に乗」っていくところ、即ち九州にしか在り得ない。岩波書店刊でも小学館刊でも構わない。日本書紀皇極元年正月の記事を是非見てほしい。佃氏は熊本県玉名市出身で、九州や有明海周辺の土地についてのことがよく分かるので、このようなことに気づいたのではないかと思った。

 

 この章の叙述は、年号の考察などかなり複雑なところもあるので古代史の復元シリーズ」⑥『物部氏蘇我氏と上宮王家』を併せて読むと理解が深まるのではないかと思う。

 

 王統の次ぎに「阿毎王権」の支配領域を見る。日本書紀の記事から、「蘇我稲目」を派遣し、555年「吉備の五郡に白猪屯倉」を設置し、556年「備前の児嶋郡」に屯倉を設置し、「倭国高市郡」や「紀国」にも屯倉を設置していることが分かる。順に西から東に屯倉を設置していく。「蘇我稲目」を派遣した王権は、当然「吉備」より西にあるから、大和にあることはない。また、「大和朝廷」が「倭国高市郡」に屯倉を設置することもあり得ないのではないだろうか。従来は、「大和朝廷」が「蘇我稲目」を派遣したとしてきた。あり得ない事である。「阿毎王権」の支配領域は、筑前肥前豊前、瀬戸内海沿岸、大和の高市郡、紀国とほぼ西日本全体に及んでいる。

 

 次に、天子の下に王や軍尼を置く統治機構を築いていることの他、この王権の官位制度に触れている。『隋書』俀国伝には、開皇20年(600年) に俀国が朝貢してきて、内官に「徳・仁・義・禮・智・信」の大小12階がある、と示されている。一方、日本書紀は「(推古)11年(603年)12月始めて冠位を行う」とあり、冠位12階を示している。日本書紀の12階は「徳・仁・礼・信・義・智」の大小12階と一部順番が変わるだけで、ほぼ同じものである。日本書紀は、俀国を抹殺しているから、俀国の出来事を推古紀の出来事として記述していることが分かる。

 

 最後に、「阿毎王権」は仏教を積極的に受容し、仏教を敬う国であることを確認し、仏典の導入や、官位の制定が文字(漢字)を急速に普及させたのではないか、と佃氏は述べる。

 


<3章> 「阿毎王権」の歴史

 

 552年に物部麁鹿火王権から「阿毎王権」(13世物部尾輿が初代)に王権が交代している。その間百済新羅と戦っているが、百済援軍の見返りとしての人質の交代がスムースに引き継がれていることから、物部麁鹿火王権から「阿毎王権」への交代はスムースに行なわれたのではないかとする。理由は、13世物部尾輿が「物部氏」の本流であるので、物部尾輿から王権を渡すように言われて、物部麁鹿火王権は抵抗することなく、王権を渡したのだろうとする。それと共に、物部尾輿は「天子」となり、その下で物部麁鹿火王権は年号を建てられなくなるが、滅亡するのではなく存続しており、「秦王国」の王となっていることも示される。

 

 「任那復興」については日本書紀欽明紀に述べられている。554年百済聖明王が戦死し、王子餘昌(後の威徳王)を援助する。日本書紀欽明紀の記述では、この間に活躍しているのは「筑紫」の武将や「筑紫国造」や「筑紫の舟師」などであり、百済を援助しているのは九州の「阿毎王権」であることが確認できる。新羅は勢いを増し、ついに562年任那を滅ぼして、朝鮮半島南部を支配する。

 

 この後、「日羅(にちら)の事件」に触れている。肥後の芦北出身で百済の達率(第2位の高官)になった「日羅」は、日本の天皇の再度の要請により、583年に百済から天皇の下に来る。しかし、百済の秘密が漏れることを恐れて、百済の従者は「日羅」を殺害する。このとき、「日羅」の従者であり、配下に殺害を命じた百済の「恩率」と「参官」は、五島列島へ向けて出発する。その後、「恩率の船は風を被(う)けて海に没す。参官の船は津嶋に漂泊して乃ち始めて帰るを得る。」(日本書紀敏達12年)とある。小学館日本書紀では、この「津嶋」を対馬としている。対馬なら、通常の航路であり、漂泊とは言わないだろう。佃氏の言うように、「津嶋」は島原半島である。従者達の帰路は、有明海を通り、五島列島を通るルートである。

 「日羅」は「阿毎王権」に喚ばれて「阿斗」(飯塚市)に滞在し、帰国する時、故郷の肥後の芦北に寄るように、来るとき船を有明海に沿った佐賀市諸富町の「諸富津」に係留していた。だから帰路は、有明海を通り、五島列島を通るルートとなる。
 もし、大和に天皇が居るとしたら、百済に帰るために有明海を通ることがあり得るだろうか。

 

 次に、「阿毎王権」の重臣である蘇我稲目蘇我馬子が熱心に仏教を取り入れたことを、日本書紀の記事から確認し、蘇我稲目蘇我馬子の本拠地を特定している。蘇我馬子が585年に「大野の丘の北」に塔を立てた(日本書紀)、とある。また、推古天皇の「御陵は大野の岡の上に在り、後に科長の大陵に遷す。」(古事記)、とされている。稲目や馬子の本拠地等から考察して、この「大野の丘」は肥前の養父郡の朝日山ではないだろうか、と佃氏は述べている。

 

 九州新幹線鳥栖駅の近くにある朝日山は、朝日山城址という名の中世の山城跡として知られている。1332年に朝日氏によって築城され、その後大内氏によって支配され、後に島津氏によっても攻め落とされ、明治期には佐賀反乱軍の拠点となった。頂上の平地には、宮地嶽神社と古い墓石がある。ここからの眺望は素晴らしく、私達は登ってみて、何か神々しいような気配を感じた。昔に推古天皇の墓があったとしても不思議ではない。大きく広がった辺り一面の平野が一望できるこの地は、14世紀よりはるか昔の古代から要衝地であったに違いない、という確信のような感触が体全体に行き渡った。(失礼!この部分は、歴史ではなく、単なる私達の感想です)

 

 577年2月、百済の古都「扶余」で百済王昌(威徳王)によって「王興寺」が建てられた。その発掘調査が行なわれているという。日本書紀は、敏達6年(577年)11月「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工6人」を百済王が献じた、と記す。「敏達(阿毎)」についての記事である。また、崇峻元年(588年)何人かの僧と共に、寺工2人、鑪盤博士(金属鋳造の技術者)1人、瓦博士4人、画工1人が来ている、と記している。これらの寺工・瓦博士は「元興寺(がんこうじ)」を建立している。「元興寺」極楽坊の禅室(国宝)の建築部材は582年に伐採されたヒノキであると、元興寺文化財研究所が発表している。577年から来ている造仏工・造寺工などは、設計を終わり、582年頃から寺の建立に取りかかっているのだろう。

 

 『元興寺伽藍縁起』によれば、605年「尺(釈)迦丈六の像(銅・繍二躯)并びに挟侍を敬い造る」とあり、608年「大隋国の使い…裴世清、…来たり之を奉(あお)ぐ。明年(609年)…元興寺に坐(す)える。」とある。仏像を隋の「裴世清」が見ており、翌年に「元興寺」に坐えられる。「裴世清」は大和ではなく、俀国(「阿毎王権」)の筑紫に来ていることを前に確認している。従って「元興寺」も筑紫に建てられている。

 

 このことは、日本書紀推古17年(609年)4月と5月の次の記事からも分かる。僧を首長とする百済の人々が難破して、肥後の芦北の港に辿り着いた。本国に送り返そうとすると、対馬に着いたとき、「道人」ら11人がみな留まりたいと請うたので、「元興寺」に住まわせた、という記事である。これを手配しているのは「筑紫太宰」であると書かれている。「筑紫太宰」は、「阿毎王権」が設置し、筑紫を統治する機関であることから、「元興寺」は筑紫にあると言える。

 

 百済の「王興寺」は「一塔一金堂」形式の「四天王寺式伽藍配置」であり、「元興寺(がんこうじ)」も同じ「四天王寺式伽藍配置」である。「王興寺」を作った百済の「造仏工・造寺工」が、「元興寺」を設計しているからである。

 その後、「元興寺」は672年~677年の間に天武天皇が筑紫から大和の飛鳥に移築して、「一塔三金堂」の形式にし、「飛鳥寺」となる。「飛鳥寺」から出土した「瓦」、「勾玉・耳飾り・玉類」等は百済の「王興寺」から出土したものとよく似ているという。

 

 一般的には「元興寺」は「法興寺」と同じ寺であるとされていて、「法興寺」=「元興寺」=「飛鳥寺」とされている。しかし、「法興寺」≠「元興寺」であることは、日本書紀を読めば明らかである、と佃氏は述べる。古代史の復元シリーズ⑧『天武天皇と大寺の移築』には、そう考えざるを得ない根拠が詳しく書かれている。
 また、「飛鳥寺の創建」は「法興寺の創建」と同じであり、596年であると「考古学」もしている。この定説は、「土器(須恵器)の編年」を約80年も早くしているため、大問題である。そのため、同書では、最近の発掘調査から得られた瓦や土器、礎石などの考古学的資料などから、「法興寺」≠「元興寺」であることを詳細に述べられている。

 

 大宰府を訪れると、市街地に突然現れる水城に驚かされるが、観世音寺の宝蔵に入っても驚かされる。狭い空間の中に、京都や奈良にある仏像に勝るとも劣らないような多くの仏像がひしめき合っている。この観世音寺は一般には、斉明天皇のために天智天皇が創建したと言われている。しかし、創建は天武天皇であり、新たな観世音寺元正天皇が造っている。この詳しい経緯も、佃氏は同書の中で述べている。この他の寺についても述べられていて、上に掲げたような寺に興味がある方は、古代史の復元シリーズ⑧『天武天皇と大寺の移築』を読むと、多くのことを学ぶことが出来るのではないだろうか。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その三)-「俀国(阿毎王権)」とその歴史-(『隋書』の「俀国」は九州の物部氏)】(64号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

 

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-