Ⅰ.「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-             (「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。


<1章> 「倭王武」と「九州年号」

 

 『宋書倭国伝には五人の倭王讃・珍・済・興・武の朝貢の記録がある魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫で簡単に確認することができる。また、『南斉書』や『梁書』にも倭王武朝貢の記録がある。この記事から、倭王興の在位年を462年~478年4月頃、倭王武の在位年を478年5月頃~502年以降と確定できる。既存の日本史では、倭王武雄略天皇であるとしている。日本書紀では、雄略天皇の在位は457年~479年とする。古事記では、崩年干支と月日を示して、雄略天皇の崩年は489年であると記している。『梁書』には、天監元年(502年)に倭王武が梁へ朝貢していることが書かれており、少なくともこの年には倭王武は生存しており、日本書紀古事記が述べる雄略天皇でないことが最初に示される。

 

『新「日本の古代史」(中)』の中で、この論文の前に「倭の五王=筑紫君」(54号)と題する20ページほどの論文がある。この論文は、古田武彦氏が示した「倭の五王」に関する全資料を掲げ、それらを検討していくことから、「倭の五王」讃・珍・済・興・武の在位年をすべて割り出している。また、日本書紀雄略紀の年が、倭王興の在位年とほとんど重なることを指摘し、具体的に日本書紀雄略紀の記述は倭王興の記録であることを示している。論旨が明快に展開されるこの論文は大変読みやすい。「倭の五王」については、この論文から読むと分かり易いのではないかと思う。)

 

 鶴峯戊申が著した『襲国偽僣考』の「九州年号」の初めに「継体天皇16年(522年)、武王、年を建て善記という。是九州年号のはじめなり。…善記4年に終わる。」とある。この記事からも、倭王武は九州の王であり、日本列島で始めて年号を建てていることが確認できる。更に、年号「善記」(522年~525年)から、倭王武の在位年は478年~525年であることが確定する。それでは、なぜ倭王武の時代の522年に、初めて日本に年号が建てられたか。それは、中国南朝との関係から明らかになる。倭王讃は425年、倭王珍は430年、438年、倭王済は443年、451年、460年、倭王興は462年、477年すべて宋に、倭王武は478年宋に、479年斉に、502年梁に朝貢している。年号は中国で建てられてきた。この時期に、初めて日本でなぜ建てられたのか。

 

 『宋書倭国伝に「倭王武の上表文」と呼ばれている文書が載っている。478年に兄の倭王興が死去して、弟の倭王武は即位すると直ぐに、宋に朝貢する。このとき、宋の最後の天子である順帝に上表した文書である。「封国は偏遠にして藩を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま=ゆとり)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国。(中略)臣は下愚なれども忝(かたじけなく)も先緒を胤(つ)ぎ、…(中略)、…以って忠節を勧む。」倭国は先祖の代から日本列島や朝鮮半島の国々を征服してきた。「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国」と倭国は、朝鮮半島まで支配を拡げている大国である。475年には高句麗によって滅ぼされた百済を救い興し、百済の再興を助けている。百済倭国支配下にあると言える。ところが、倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代し、更に「梁の高祖」は、521年「百済王餘隆」を「寧東大将軍」に任命し、倭国が滅亡から救った百済倭国と同格以上に扱う。このことで、中国王朝への不満が高まり、倭王武朝貢を止め、独立し、自ら年号「善記」を建て、天子となることを決意する。翌522年のことである。これが、倭王武の時代に日本列島に初めて年号が現れた理由であると、佃氏は説明する。
 尚、中国王朝への朝貢は502年以降百年間ほど途絶え、その後600年に俀国が隋へ朝貢する。

 


<第2章> 「磐井の乱」と「倭の五王

 

 日本書紀に「磐井の乱」と云われている戦いがある。継体21年(527年)6月、近江毛野臣は軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅などを復興して、任那と合併しようとしたときに、「…筑紫国造磐井は陰に反逆を謀る。……磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りてつかまえられず。」とある。継体天皇物部麁鹿火に対して、もし磐井を伐つことができたら、「長門山口県)より以東は朕がこれを制する。筑紫より以西は汝が制せよ。」と言う。「(継体)22年(528年)11月、大将軍物部大連麁鹿火、親(みずか)ら賊師の磐井と筑紫の御井郡で交戦する。…遂に磐井を斬り、果たして疆場を定める。」磐井は伐たれ、「長門山口県)より以東」は継体天皇の領土に、「筑紫より以西は」物部麁鹿火の領土になった、と書かれている事件である。

 

 日本書紀のこの記事から、磐井の支配領域は、火・豊の二国(肥前・肥後・豊前・豊後)、長門山口県)より以東、筑紫より以西を含む領域であり、西日本であることが分かる。日本書紀では、「磐井の乱」の磐井は、「筑紫国造」とされている。一方、『筑後国風土記』では、「筑紫君磐井」と記され、別区をもち、中に石人がある大きな墓(具体的な大きさを表記)が磐井の墓だと述べられている。研究者によって、この大きな墓は福岡県八女市の岩戸山古墳であることが実証されている。このことから、「筑紫君」は西日本を支配している王であり、筑後(福岡県八女市付近)を本拠地としていることが分かる。
 筑後の八女古墳群からは、特有の「石人・石馬」が出土し、この「石人・石馬」は筑後、肥後、豊後に分布しており、「磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りて」に合致している。また、この有明海周辺の古墳群には「横口式家形石棺」という大きな特色がある。

 

 吉備には5世紀前半頃の「造山古墳」、5世紀中頃の「作山古墳」という大きな古墳があり、「吉備王国」が存在したとされる。ところが「作山古墳」以降は、墓の作り方が一変する。5世紀後半になると吉備地方には、「肥前・肥後」(有明海周辺)の石材と技術による新しい形式の古墳が急に作られるようになるという。「墓」の違いは、文化、習慣の違いを意味しているから、古墳の遺跡は、「吉備王国」が有明海周辺の王権、即ち「筑紫君」に支配されるようになったことを示している。日本書紀雄略7年(463年)に、吉備の国に関する記事がいくつか出てくる。その中で、「吉備下道臣前津屋」が天皇を馬鹿にしているという記述をした後、「これを聞いた天皇は、物部の兵士30人を派遣して、前津屋および族70人を誅殺したという。」と書いている。この記事は、吉備王国が滅亡し、他の権力によって支配されたことを示している。前に述べた古墳の変化とこの記事から、463年頃、「筑紫君」が吉備地方を支配するようになったことが分かる。また、「筑紫君」の支配領域「長門山口県)より以東」が吉備地方を含んでいることも確認できる。

 

 巨大古墳時代は4世紀末頃から始まるが、吉備地方が「筑紫君」に支配されるようになった5世紀の後半の頃から近畿の古墳にも大きな変化が現れる。「長持形石棺」が消滅し、これに代わって、「九州の舟形石棺」が登場する。古墳時代の最大の変革期であり、九州の菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺が河内地方等に運ばれる。「筑紫君」の領域は畿内まで拡大し、「筑紫君」は西日本を支配している。

 

 日本書紀雄略7年(463年)の吉備の国に関する記事で、もう一つの事件がある。吉備上道臣田狭は盛んに自分の妻(稚媛)が美人であることを自慢し、それを聞いた天皇が、稚媛を女御にしようと決心し、田狭を任那国司に任命して派遣し、天皇は稚媛を娶り、子供までつくったという事件である。『宋書』が記しているように、朝鮮半島南部の任那を支配しているのは倭の五王である。463年であるから、「吉備上道臣田狭」を任那に派遣したのは、倭王興である。倭王興任那と吉備地方を支配している。一方、「物部の兵士30人を派遣して」、吉備王国を滅ぼしたのは、「筑紫君」であった。吉備地方を支配しているのは、「筑紫君」であり、同時に「倭の五王倭王興)」である。即ち、「筑紫君」=「倭の五王」ということになる。

 

 また、「倭の五王」が「筑紫君」であることは、次の日本書紀の記事によっても検証される。雄略10年(466年)9月、宋に派遣されていた身狭村主青(むさのすぐりあを)が筑紫に帰って来て、筑後の三潴(水間)に上陸している記事がある。宋へ朝貢しているのは「倭の五王」である。462年に倭王興は即位すると直ちに宋に朝貢する。462年3月に宋は倭王興を「安東将軍」に任命する。翌月の462年4月、宋はそれを正式に伝えるため使者を倭国に派遣する。464年に倭王興はそのお礼を兼ねて身狭村主青等を宋に派遣する。466年身狭村主青等は帰国して倭王興に報告に行く。筑後の三潴(水間)は有明海に沿ってあり、もし、雄略天皇が居る大和へ報告に行くのだとしたら、有明海に入り、筑後の三潴に上陸することはない。倭王興が居る筑紫君の本拠地(八女市付近)に行くために有明海に入る。「倭の五王」の本拠地は筑後だから、「倭の五王」は「筑紫君」である。

 

 日本書紀倭王興雄略天皇に、倭王武継体天皇にすり替えて記していると、佃氏は指摘する。日本書紀雄略紀の記事等により、倭王興が、吉備地方を始として近畿、瀬戸内海地方を支配するようになったことを確認した。『宋書』の「倭王武の上表文」や日本書紀継体紀によって(4章で述べる「筑紫の舞」や稲荷山古墳の鉄剣の銘文などからも)、倭王武が関東まで含む日本列島と朝鮮半島南部を支配したことを理解することができる。

 

 『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)は航海や漁業、海運等に関する認識に目を見開いてくれ、古代史に新たな視点を投じて、私達に大変参考になった本である。この本の中で、長野氏は、463年頃吉備地方が侵攻された事件に触れ、この雄略帝による吉備侵攻は瀬戸内海啓開事業が真の目的であったと述べる。更に、それまで瀬戸内海は一般的には通交することができず、瀬戸内海の啓開を行なったのは雄略帝であるとし、「大和朝廷は、瀬戸内海の啓開と符牒があうように、6世紀から播磨、備前、備後、安芸を経て九州まで数多くの屯倉を開くこととなった。穀物が瀬戸内海を運べるようになったことを意味するとともに、汐待ち、風待ちで立ち寄る船乗りへの食糧供給基地をつくった。…瀬戸内海でそれを行なうことを可能にしたのが、雄略帝の啓開だったのである。」(p.118)と述べている。また、「倭国は「磐井の乱」制圧後、6世紀半ばに、国家として九州と近畿を含めた「敦賀・湖北ヤマト王国」になり、継体天皇から我が国は本格的な統治を始めた-とする武光誠氏の説に私は深く賛同する。」(p.209)とも述べている。長野氏は「海路」の観点などから詳しく見て、雄略天皇の時代に瀬戸内海が啓開され、継体天皇の時代に我が国は本格的な統治がされるようになった、と言う。長野氏と私達は大和朝廷や支配的な王権の捉え方が全く異なるが、日本書紀の雄略紀の時代、即ち倭王興の時代に瀬戸内海が支配されていき、継体紀の時代、即ち倭王武の時代に日本列島が統一的に支配されるようになったと、同じことを述べていて、大変興味深い。

 この本の姉妹編とも言える『古代史の謎は「鉄」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)からも、いろいろなことを学ぶことができた。私たちのメンバーに中には、この本で触発され丹後半島に旅し、神明山古墳などを訪れた者もいる。

 

 もし、「倭の五王」が大和朝廷天皇で、「邪馬壹国」が奈良にあったとした場合、瀬戸内海の啓開が雄略紀、つまり倭王興の時代だと分かると、倭王讃が425年に宋に朝貢した時の海路はどのようなルートであったのか、更に遡って、247年に「邪馬壹国」に来たと『魏志倭人伝が書いている魏の張政はどのようなルートで来て、どのようなルートで帰ったのかを明らかにする必要がある。従来は、瀬戸内海を通ることが、それ程大きな問題とは考えられていなかった。長野氏が述べるような専門的な知識を歴史学は生かしていかなければならないのではないだろうか。

 


<3章> 「磐井の乱」と年号

 

 継体22年(528年)11月に物部麁鹿火が磐井を斬り、「磐井の乱」は終焉し、「筑紫より以西」は物部麁鹿火が制する。次の12月の日本書紀の記事に「筑紫君葛の子、父に座して誅されるのを恐れて糟屋屯倉を献じて死罪を讀(あがな)われんことを求む。」とある。と言うことは、磐井は「筑紫君葛」であることを示している。また、多々良川の南側にある糟屋屯倉は「筑紫より以西」であるから、筑紫君葛の子は物部麁鹿火糟屋屯倉を献じて、「死罪を讀(あがな)われんことを求」めた。北九州を支配しているのは物部麁鹿火である。

 

 『襲国偽僣考』は、倭王武が年号「善記」を建てたことを記しているが、同書は、他の古文献の記述や違う説があることにも言及している。「殷到」の項では、「…如是院年代記、教到に作る。同書に、教到元、始めて暦を作る、とあるもまた襲人のしわざなるべし。一説に正和と殷到との間に定和・常色の二年号あり。いわく定和7年に終わる。常色8年に終わる。教知5年に終わる。一説に教知に造る。又、殷到という。」と書いている。『如是院年代記』の記事も参考にして、年号「殷到」は初めて建てられた年号であること、二種類の年号が併存していることを佃氏は示す。「善記」-「正和」-「定和」―「常色」と倭王権(筑紫君)の年号が続いていく。一方、倭王権以外の新たな王権の(九州)年号「殷到」が建てられ、「殷到」-「僧聴」と続く。「殷到」は531年に始まり535年に終わり、「僧聴」は536年に始まると『襲国偽僣考』は記している。ここで、日本書紀宣化元年(536年)7月に物部麁鹿火薨去したとする記事を見る。物部麁鹿火が死去した年に、年号が「殷到」から「僧聴」に替わっている。「殷到」は初めて建てられた年号であるから、倭王(筑紫君)を倒して、九州で新たに天子となった物部麁鹿火が建てた年号が「殷到」であり、この王権の2代目の年号が「僧聴」であることが分かる。物部麁鹿火は年号をもった新たな王権を樹立している。
 糟屋屯倉を献じることで「筑紫君葛の子」は「筑紫君」として存続を許される。倭王武から始まる「筑紫君」の年号は、磐井が継ぎ、磐井死後も死罪を免れた筑紫君葛の子によって継続される。そのため、二つの「九州年号」が併存することになった。ここのところでは、重なり合って複雑な年号と歴史的事実とを、佃氏は見事に解き明かしている。

 

 日本書紀では、「磐井の乱」が終わった年を継体22年(528年)としている。王が変わると年号は変わるから、この年は、倭王権では定和元年であり、物部麁鹿火の王権では殷到元年ということになる。ところが、定和元年も殷到元年も共に531年である。この「九州年号」の考察から、「磐井の乱」が終わった年は531年であると判断できる。(始まったのは、530年)日本書紀の継体紀に次の記事がある。「…『百済本紀』を取りて文を為す。其の文に云う、太歳辛亥3月…又聞く、日本の天皇、及び太子・皇子、倶(とも)に、崩薨す。…」辛亥年は531年であり、日本の天皇が531年に崩御したと述べている。百済が日本の天皇としているのは、継体天皇ではなく、実際に交流している倭王葛(磐井)である。この記事からも、倭王葛(磐井)が死去した年は531年であること、即ち、「磐井の乱」が終わった年は531年であることを確認することができる。逆に、日本書紀はこの『百済本紀』の記事から、継体天皇の崩年を継体25年(531年)とし、一方、古事記は丁未年(527年)4月9日と、食い違った表記をしている。他の事柄からも古事記の記事のほうが正しいと判断でき、継体天皇の崩年は527年である。すると、「磐井の乱」が始まる530年には、すでに継体天皇崩御している。

 

 日本書紀は、「磐井の乱」を継体天皇物部麁鹿火を将軍として派遣して、筑紫君(倭王)を伐った事件であると記述する。しかし、継体天皇はすでに死去していて、派遣することはできない。また、磐井は西日本を支配する倭王(筑紫君)である。このことから、「磐井の乱」は主君である倭王(磐井)に対する物部麁鹿火の反逆事件であり、531年に終わることが判明した。

 

 最後に、朝鮮半島前方後円墳について、その特徴がまとめられている。6世紀前半(512年~532年)の時期に突如として出現する一世代の造営であり、被葬者は朝鮮半島の在地首長ではなく、九州北部から有明海沿岸地域出身の倭人であるという。また、戦士集団である可能性が高く、栄山江流域の前方後円墳には百済製品があり、銀被鉄釘と鐶座金具が使用された装飾木棺は百済王室からの下賜品である、と韓国の考古学者が述べている。百済と交流しているのは倭王権である。倭王権(筑紫君)によって朝鮮半島に派遣されていた武将や、531年の「磐井の乱」で敗れて朝鮮半島に逃げた倭王権の武将が、その墓として前方後円墳を築いているのではないかと、佃氏は述べる。

 


<4、5章> 「獲加多支鹵大王」と「江田船山古墳」、稲荷山古墳と「辛亥年

 

 稲荷山古墳(埼玉古墳群)から出土した鉄剣の金象嵌の銘文と江田船山古墳(熊本県玉名郡菊水町)から出土した鉄剣の銀象嵌の銘文では、ともに「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)と記されていることが判明した。銘文の解釈を含めて、定説は以下のようである。
 「稲荷山古墳(関東)の被葬者と江田船山古墳(九州)の被葬者は共に天下を治めた獲加多支鹵大王に仕えていた。獲加多支鹵大王は全国を支配しているから大和の天皇で、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に鉄剣が作られた年が記されて「辛亥年7月」とあるから、471年(辛亥年は60年後の531年説もあるが、定説は471年)のことであり、このときの天皇雄略天皇である。つまり、獲加多支鹵大王は雄略天皇であり、倭王武でもある。」

 

 しかし、倭王武が即位するのは『宋書倭国伝からも確認できたように478年であり、471年にはまだ倭王武は即位していないので、この定説は成立しない。江田船山古墳(九州)の被葬者は「治天下獲加多支鹵大王」に仕えていたと銘文にある。この時代九州を支配していたのは、倭王(筑紫君)であり、雄略天皇ではない。従って、獲加多支鹵大王は倭王(筑紫君)である。更に、倭王讃の墓とされる石人山古墳や江田船山古墳の石棺や副葬品等から、江田船山古墳の最初の被葬者は、『宋書倭国伝の「太祖の元嘉2年」の記事に出てくる倭王珍の将軍「倭隋」であろう、と佃氏は述べる。

 

 『筑後国風土記』では、岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓としている。しかし、磐井は豊前国に逃げて死んだとも記されていることなどから、磐井は筑後の八女古墳群には埋葬されていない。また、岩戸山古墳は寿墓(生前に作られた墓)であり、磐井の死後も墓の整備が行なわれ、祀り続けられているという。このことなどから、岩戸山古墳は、倭王武の墓であることが分かる。
 一方、継体天皇は「磐井の乱」には関係しないことが明らかになったが、更に、継体天皇の出自についても考察している。継体天皇の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)に熊本県宇土産の「阿蘇ピンク石製石棺」が使われていることなどから、継体天皇の父は筑紫君の将軍であり、熊本県から近江(滋賀)に派遣されて、継体天皇を産んだのではないか、としている。

 

 最後に、古田武彦氏が『よみがえる九州王朝』(角川選書の中で詳しく紹介している「筑紫の舞」は「倭の五王」(筑紫君)が全国を支配していることを証明している、とする。また、「筑紫の舞」であるにもかかわらず、各地区の翁の中に「筑紫の翁」がなく、「都の翁」が必ずあることから、都は「筑紫」ではないかとする。更に、始終「肥後の翁」が中心になって舞が進行していることから、「肥後の翁」は江田船山古墳の被葬者とされた倭王の将軍「倭隋」などを表しているのではないかとする。「七人立の舞」に出てくる翁は各地域の王であり、ちょうどその時期その地域に立派な古墳が造られていることを、佃氏は指摘する。都の翁-岩戸山古墳、肥後の王-江田船山古墳、加賀の翁-二本松山古墳、難波津より上がりし翁-今城塚古墳、夷の翁-二子山古墳(埼玉)、尾張の翁-断夫山古墳、出雲の翁-出雲地方の古墳。この指摘も興味深いが、岩戸山古墳(八女古墳群)と二子山古墳、稲荷山古墳(埼玉古墳群)が同じ設計で作られていて、同じ形であるとする指摘も大変興味深い。

 

 5章の最初に、江田船山古墳の鉄剣の銘文は「治天下獲加多支鹵大王」と書かれており、大王が「治天下」であることを示し、最初の年号「善記」(522年~525年)を建て「天子(治天下)」となっているのは倭王武であることなどから、獲加多支鹵大王は倭王武であるとする。また、稲荷山古墳の鉄剣の銘文の辛亥年は471年が定説とされてきたが、倭王武が年号「善記」を建て、「治天下」となったのは522年であることから辛亥年は522年以降であり、辛亥年は531年が正しいとして、定説の誤りを指摘する。『百済本紀』が「日本の天皇…崩薨す。…」と記した辛亥年3月は531年3月であったが、鉄剣の辛亥年も531年である。

 

 埼玉古墳群は原野に突如として造られ、最初の「稲荷山古墳」は5世紀の第4四半期(476年~500年)頃造られたと、研究者が述べている。倭王興は463年頃「吉備王国」を滅ぼし、その直後に「東海」から「関東」に居る「毛人」を征服するために「埼玉古墳群」の人々を派遣したのだろうと、佃氏は述べる。倭王権(筑紫君)は、関東まで支配を拡げている。「稲荷山古墳」に追葬された「乎獲居臣(オワケの臣)」は、「獲加多支鹵大王」(倭王武)に仕えて大王が天下を治めるのを助け、大王が死去した後に、鉄剣を作っている。

 

 『百済本記』は、531年3月に「磐井の乱」が終わると伝える。稲荷山古墳の鉄剣がどうしてこの直後の531年7月に作られたのか、どうして銘文がこのように書かれたのかの解釈は納得できるもので、大変素晴らしい。漢字の短い文の中に込められた深い意味を多くの人にも味わっていただきたいので、是非、佃氏の論文「九州の王権」と年号(その一)に目を通していただきたいと思う。

 

 最後に「九州年号」は、鉄剣の金石文や『百済本紀』の記述と合致していることを確認し、「九州年号」は歴史学会が言うような「偽年号」や「私年号」ではなく、日本列島を支配した倭国(筑紫君)の正式な年号であると述べる。
 辛亥年は471年であるとする誤った定説は、「須恵器編年」を狂わしており、佃氏が古代史の復元⑧『天武天皇と大寺の移築』で指摘した飛鳥寺に関する誤った定説も「須恵器編年」を大きく狂わしているとして、現在の考古学について苦言を呈している。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-(「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)】(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   魏志倭人伝