おわりに

 

 以上、5世紀の「倭の五王」から「物部麁鹿火王権」、「阿毎王権」と続く7世紀初頭までの歴史を、三つの佃論文に沿って学んできた。この文書は、その要旨をまとめたものである。この時代の解明のためには、「九州年号」を読み解いていくことが必要不可欠である。そのため、最初に私達が整理した「九州年号」論を示してみた。

 

 既存の古代史は、記紀の記述に沿って展開される。記紀天武天皇の指示により編纂された。天武天皇は「天氏」であるから、「天氏」以外で日本に渡来した「卑弥氏」の支配は載せようとしない。「邪馬壹国」の「卑弥呼」や「倭の五王」は「卑弥氏」であるから、記紀には登場しない。『魏志倭人伝、『後漢書』倭伝、『隋書』俀国伝などに「卑弥呼」が明確に書かれ、『宋書』に「倭の五王」が明確に記されている。このことを、日本書紀古事記の編纂者たちが知らないはずがない。更に、渡来人である崇神・景行・応神・仁徳天皇を、万世一系天皇の系譜に組み入れて記述している。

 

 記紀の編纂を天武天皇から引き継いだ持統天皇以下の天智王権は、神武天皇から始まる万世一系の王権は天智王権であるように、記紀を書き替えている。天武天皇天智天皇の弟にし、そのため天武天皇の父も舒明天皇ということになって、天武王権を創設した実際の「天武天皇の父」は記紀には登場しない。私達の目の前にある記紀は、この結果のものである。記紀の通りに歴史を述べれば、このようなことは分からない。もっと多くの資料を活用して、史実に迫らなければならないのではないか。

 

  記紀に書かれていることは一部矛盾していると思っても、古代史全体を説明するためには、やはり記紀の記述に従うしかない、と考えている人は多いのだろう。他に、全体を記述しているものがないからである。


 しかし、佃氏は様々な資料を駆使して、常にそう考える根拠と、時、場所を明示しながら、紀元前12世頃に長江流域に居たとされる「倭」と呼ばれた氏族がどのように日本に渡来して来たかから始めて、8世紀中頃までの日本古代史の基本的流れを叙述している。もちろん、一般論として言えば、これから新たな資料が発見されたりして、佃氏の結論が一部変更されることはあり得るだろう。大幅な書き換えが必要になることもあるかも知れない。しかし、記紀に書かれていることを鵜呑みにせず、時と場所を常に検討し、しかも記紀に書かれた内容を生かし、理由を明示して、私達も納得がいく日本古代史を構成している。私達が記紀の記述を生かしながら、史実に沿った古代史を構成しようとする際の、出発点を与えてくれる。作成委員会が佃氏の研究から多くを学ぶことができたように、多くの方々も学ぶことができるのではないかと考える。


 この文がそのような方々に少しでも参考になれば、大変嬉しく思います。また、『新「日本の古代史」(下)』所収の「「九州の王権」と年号(その四)~(その六)」についても、要旨をまとめた文を作成したいと考えています。この拙文を読んだ後に、佃氏の論文をじっくり読まれる方があることを願っています。

(平成29年12月、「日本古代史の復元」ホームページ作成委員会) 

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   魏志倭人伝