はじめに-いわゆる「九州年号」-

 

 佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の「九州の王権」と年号(その一)~(その三)の三つの論文によって、5世紀から7世紀初めにかけての日本の歴史の骨格を、私達は知ることができる。この文書は、この三つの論文と「九州年号」についての要点を、「日本古代史の復元」ホームページ作成委員会がまとめたものです。

 

 佃氏は『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』、『宋書』、『隋書』、『旧唐書』(記紀続日本紀はよく知られているため、この小論では以降『』を付けずに表記します)などはもとより、様々な古文献や古墳から発掘された考古学的資料などを基に考察している。その考察では、歴史的事象の時を特定したり、王権の交代などを検討することなどに、いわゆる「九州年号」と呼ばれているものが実に‘導きの糸’として有効に使われていることに驚かされる。そこで、既存の歴史学では「私年号」などとも呼んでいる「九州年号」に対する、私達作成委員会の捉え方をまず明記することから始めたい。

 

 記紀には年号が三つだけ記載されている。古事記には全くなく、日本書紀だけに「大化」、「白雉」、「朱鳥」の年号が突然出てくる。巻第25孝徳紀で「…大化元年(645年)とす。大化元年の秋七月の…」と「大化」年号表記が初めて現れる。しかし、年号を初めて建てるというような記述はない。次は、同じく巻第25孝徳紀に「白雉元年(650年)の春正月の…」と「大化」に続くとされる「白雉」年号が現れる。次は、巻第29天武紀の天武14年12月の記事の後に「朱鳥元年(686年)の春正月に…」と「朱鳥」年号が現れる。他には全く出てこないので、様々な疑問が浮ぶ。まず、日本の年号は「大化」を最初としていいのか?「大化」、「白雉」と続くとして、「朱鳥」までの数十年間は年号が制定されていなかったのか?「朱鳥」以降持統紀には年号はなかったのか?……
 日本書紀に続く続日本紀では、巻第1で年号の表記がない文武天皇の4年間が記述された後、巻第2で文武天皇5年目の3月に「元を建てて大宝元年としたまふ。」と書かれ、文武天皇の最初の年号「大宝」(701年~705年)が表記される。「大宝」以降は現在まで年号は続いている。

 

 古代年号について、古田武彦氏は『失われた九州王朝』の中で、『海東諸国紀』、『麗気記私鈔』、『如是院年代記』、『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)などに言及して、『襲国偽僣考』を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が述べた「九州年号」の重要性を指摘した。

 

 『海東諸国紀』は李氏朝鮮碩学が15世紀に撰録した史書である『海東諸国紀』(岩波文庫のはしがきには次のように書かれている。「『海東諸国紀』は、朝鮮王朝最高の知識人が日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情等を克明に記述した総合的研究書である。1471年に朝鮮議政府領議政申叔舟(シンスクチュ)が王命を奉じて撰進した書物で、海東諸国(日本と琉球)の国情と、その朝鮮との通交の沿革を記し、さらに使人接待の規定を収めている。本書に記された使人応接の規定は日朝間の通交を長く規制したものであり、実務書として果した役割も少なくなかった。」
 「議政府領議政」は首相に相当する最高の官職であり、申叔舟(シンスクチュ)はハングルを制定した世宗(セジョン)以降世祖(セジョ)など6朝に仕えている最高の知識人である.

 

 この『海東諸国紀』を読むと、「日本国紀」の「天皇代序」の部分で、初代神武天皇から102代後花園天皇までのことが年代順に簡潔に記述されている。26代継体天皇の項では「…(継体)16年(522年)壬寅、始めて年号を建て善化と為す。…」と書かれている。継体16年(522年)に、日本の年号が初めて建てられたことが示され、以降の天皇の年号がすべて記載されている。続日本紀に書かれている「大宝」から「延暦」までの14の年号が正確に記載されているだけではなく、以降も15世紀の「応仁」、「文明」まで、正確に日本の年号が書かれている。(南北朝については、北朝の年号を記載)日本書紀は、持統11年(697年)8月に、天皇が皇太子に譲位する記事で終わる。前に見たように、日本書紀では、持統11年(697年)までに断片的に三つの年号だけが現れ、他には年号の記載はない。古事記には、年号の記述は全くない。しかし、継体16年(522年)以降の日本の古代年号が、隣国朝鮮の最も信頼されるべき本の中に書き続けられている。

 

 朝鮮の『海東諸国紀』だけでなく、『二中暦』(鎌倉時代の百科事典)や上に揚げた日本の古文献にもこの古代年号が記載されている。その中の『襲国偽僣考』(そのくにぎせんこう)を著した鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)は豊後国臼杵生まれの江戸後期の学者で、研究領域は多岐に渡っている。10代の頃から本居宣長に触発された古書・古文献の注釈、西洋の天文学(地動説)・物理学、言語学等を研究する他、アメリカ海軍司令官ペリーが来航したとき水戸侯斉昭に「異国船の儀に付内分申上候書付」を呈上し、嘉永7年(1854年)日米和親条約が結ばれた直後に「新町開発存寄書」を記し、社会改革にも言及している。

 

 鶴峯戊申はその著書『海西漫録』の中の「倭錦考証」の項で、「…但し魏志倭王とあるは、我天皇の御事にあらず、倭王とは九州にて僭偽せしものをいへる事、戊申が『襲国偽僣考』に記し置きたるが如くなるべし、…」と述べ、「武王上表」の項では、「宋書に載る所の、倭の武王の上表は、けだし偽僭襲人の作れる所也、その我朝廷を蔑にして、外を慕う意まことに悪むべしといへども、此文章は上宮太子憲法に先だつ事、一百二十八年のむかしに書る処也、…これをもても、九州の地方にはやくより漢風の盛なりし事を推べし、…なほくはしくは『襲国偽僣考』にあげつらへり、…其書のおもむきは、在昔我皇国にて、偽僭をなしたる熊襲の先は、そのかみ我西鄙に逃来りし呉王夫差の子孫にして、其勢ようやく強大にして、身に錦繡をよそひ、居に城郭を築き、朝廷に先だちて漢の文字を取あつかひ、僞て王と稱し、漢及三韓に通じ、暦を作り、銭を鑄たる考、倭と云國号も襲人の建たる所、九州年号と云るも、襲人のしわざなるべきよしを辯じ、且又倭字を皇國の國號の假字に用ひ、皇國を呉太伯の後也と云に至るは、もと襲人を皇國に混じたるより起れる非が事なる由を、すべて和漢古今の諸書に徴して、明細にさとせる也。」と述べている。(鶴峯戊申の基礎的研究』桜楓社、藤原暹著

 

 「魏志倭人伝)に倭王とあるは、…倭王とは九州にて僭偽せしもの」であり、「倭の武王の上表(文)は、けだし偽僭襲人の作れる所也」と述べ、天皇の系統とは別の「呉王夫差の子孫の襲人」が王を称し、漢や三韓に通じ、年号を定めている、と戊申は言っている。更に、「九州年号」と題した古写本があり、これを見て、それに基づいて、「善記」から「大長」まで続くこの「襲人」の国の古代年号を「九州年号」と述べた。(『海東諸国紀』では、最初の年号は「善記」ではなく「善化」と記している。年号表記は古文献によって少し違いがある。)

 

 この「九州年号」と呼ばれた古代年号を、歴史学会は「私年号」などと呼び、無視している。「九州年号」を認めてしまえば、大和朝廷以外に、年号を認めさせ支配をしていた王権が実在していたことになり、記紀の記述に反するからである。
 最初に「善記」が建てられ、継体16年(522年)から始まるこの古代年号を鶴峯戊申によって「九州年号」と呼ぶようになったこと、朝鮮の史書や日本の古文献に記載されている「九州年号」は無視されるのではなく、考慮に値するのではないかということは、以上で納得していただけるのではないかと思う。更に私達は次のことから、「九州年号」を考察することがどうしても必要であると考えている。

 

 奈良にある有名な法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘に書かれている年号「法興」は『襲国偽僣考』にある「九州年号」である。また、続日本紀神亀元年冬十月条の記事に書かれている年号「白鳳」と「朱雀」も「九州年号」である。その他各地での古文書などにも「九州年号」が記載されている。「九州年号」が偽作などではなく、その時代に明らかに流布されていたものであることが確認できる。大和朝廷かどうかは別にして、年号が使われていたという事実は、その時代その地方を確かに統治していた権力が存在していたという事を示している。

 

 既存の日本古代史の定説では、『宋書倭国伝に記されている「倭の五王」讃・珍・済・興・武は大和朝廷天皇であり、倭王武雄略天皇であるとし、他の讃・珍・済・興については、諸説があり、確定していないとする。このことに対して、上に述べたように鶴峯戊申は、「倭の五王」の倭国は、大和朝廷とは別の「偽僭襲人」の国であり、「九州年号」はその年号であるとしている。「倭の五王」が本当に大和朝廷天皇であったのかを明確にするためにも、「九州年号」の詳しい検討が必要ではないだろうか。

 

 以上「九州年号」と呼ばれているこの古代年号を「私年号」として無視するのは、日本古代史の在り方として適切でないことを述べた。もちろん、『海東諸国紀』や『襲国偽僣考』に書かれていることをすべて正しいと認めることではない。記紀や他の古文献、古墳などから出土する考古学的資料などと比較検討しながら、史実を反映している日本古代史の建設に向け、「九州年号」も十分に活用していかなければならないというのが、私達作成委員会の立場である。

 

 ついでながら、次のことも確認しておきたい。私達は主に7世紀くらいまでの日本古代史を検討していて、大和朝廷がどのように成立してきたかも考察している。しかし、このことは、現在の天皇制に対する政治的な立場とは直接関係しないと思っている。イギリスの王室よりはるかに長い歴史をもつ日本の天皇制は、その時代ごとに役割を果してきた。現在の天皇制に対する政治的な見解は、現在の政治状況等から判断されることであり、古代の歴史がどのように作られてきたかは、直接には影響しないと考える。
 私達は、古代において日本人がどのように形成されてきたかに興味がある。既存の日本古代史は、どう考えてみても納得のできるものではない。今後の日本人が国際社会の中でどのように生きていくのか、日本人の生き方に、歴史の究明が深いところでつながっていると考えている。そのために、祖先の足跡をしっかりと確認したいと願っている。

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-

Ⅰ.「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-             (「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。


<1章> 「倭王武」と「九州年号」

 

 『宋書倭国伝には五人の倭王讃・珍・済・興・武の朝貢の記録がある魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫で簡単に確認することができる。また、『南斉書』や『梁書』にも倭王武朝貢の記録がある。この記事から、倭王興の在位年を462年~478年4月頃、倭王武の在位年を478年5月頃~502年以降と確定できる。既存の日本史では、倭王武雄略天皇であるとしている。日本書紀では、雄略天皇の在位は457年~479年とする。古事記では、崩年干支と月日を示して、雄略天皇の崩年は489年であると記している。『梁書』には、天監元年(502年)に倭王武が梁へ朝貢していることが書かれており、少なくともこの年には倭王武は生存しており、日本書紀古事記が述べる雄略天皇でないことが最初に示される。

 

『新「日本の古代史」(中)』の中で、この論文の前に「倭の五王=筑紫君」(54号)と題する20ページほどの論文がある。この論文は、古田武彦氏が示した「倭の五王」に関する全資料を掲げ、それらを検討していくことから、「倭の五王」讃・珍・済・興・武の在位年をすべて割り出している。また、日本書紀雄略紀の年が、倭王興の在位年とほとんど重なることを指摘し、具体的に日本書紀雄略紀の記述は倭王興の記録であることを示している。論旨が明快に展開されるこの論文は大変読みやすい。「倭の五王」については、この論文から読むと分かり易いのではないかと思う。)

 

 鶴峯戊申が著した『襲国偽僣考』の「九州年号」の初めに「継体天皇16年(522年)、武王、年を建て善記という。是九州年号のはじめなり。…善記4年に終わる。」とある。この記事からも、倭王武は九州の王であり、日本列島で始めて年号を建てていることが確認できる。更に、年号「善記」(522年~525年)から、倭王武の在位年は478年~525年であることが確定する。それでは、なぜ倭王武の時代の522年に、初めて日本に年号が建てられたか。それは、中国南朝との関係から明らかになる。倭王讃は425年、倭王珍は430年、438年、倭王済は443年、451年、460年、倭王興は462年、477年すべて宋に、倭王武は478年宋に、479年斉に、502年梁に朝貢している。年号が中国で建てられていることは分かっている。日本でなぜ建てられたのか。

 

 『宋書倭国伝に「倭王武の上表文」と呼ばれている文書が載っている。478年に兄の倭王興が死去して、弟の倭王武は即位すると直ぐに、宋に朝貢する。このとき、宋の最後の天子である順帝に上表した文書である。「封国は偏遠にして藩を外に作る。昔より祖禰躬(みずか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋歩し、寧処(安心して生活する)に遑(いとま=ゆとり)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国。(中略)臣は下愚なれども忝(かたじけなく)も先緒を胤(つ)ぎ、…(中略)、…以って忠節を勧む。」倭国は先祖の代から日本列島や朝鮮半島の国々を征服してきた。「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平らげること95国」と倭国は、朝鮮半島まで支配を拡げている大国である。475年には高句麗によって滅ぼされた百済を救い興し、百済の再興を助けている。百済倭国支配下にあると言える。ところが、倭王武の時代の中国の王朝は宋、斉、梁と目まぐるしく交代し、更に「梁の高祖」は、521年「百済王餘隆」を「寧東大将軍」に任命し、倭国が滅亡から救った百済倭国と同格以上に扱う。このことで、中国王朝への不満が高まり、倭王武朝貢を止め、独立し、自ら年号「善記」を建て、天子となることを決意する。翌522年のことである。これが、倭王武の時代に日本列島に初めて年号が現れた理由であると、佃氏は説明する。
 尚、中国王朝への朝貢は502年以降百年間ほど途絶え、その後600年に俀国が隋へ朝貢する。

 


<第2章> 「磐井の乱」と「倭の五王

 

 日本書紀に「磐井の乱」と云われている戦いがある。継体21年(527年)6月、近江毛野臣は軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅などを復興して、任那と合併しようとしたときに、「…筑紫国造磐井は陰に反逆を謀る。……磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りてつかまえられず。」とある。継体天皇物部麁鹿火に対して、もし磐井を伐つことができたら、「長門山口県)より以東は朕がこれを制する。筑紫より以西は汝が制せよ。」と言う。「(継体)22年(528年)11月、大将軍物部大連麁鹿火、親(みずか)ら賊師の磐井と筑紫の御井郡で交戦する。…遂に磐井を斬り、果たして疆場を定める。」磐井は伐たれ、「長門山口県)より以東」は継体天皇の領土に、「筑紫より以西は」物部麁鹿火の領土になった、と書かれている事件である。

 

 日本書紀のこの記事から、磐井の支配領域は、火・豊の二国(肥前・肥後・豊前・豊後)、長門山口県)より以東、筑紫より以西を含む領域であり、西日本であることが分かる。日本書紀では、「磐井の乱」の磐井は、「筑紫国造」とされている。一方、『筑後国風土記』では、「筑紫君磐井」と記され、別区をもち、中に石人がある大きな墓(具体的な大きさを表記)が磐井の墓だと述べられている。研究者によって、この大きな墓は福岡県八女市の岩戸山古墳であることが実証されている。このことから、「筑紫君」は西日本を支配している王であり、筑後(福岡県八女市付近)を本拠地としていることが分かる。
 筑後の八女古墳群からは、特有の「石人・石馬」が出土し、この「石人・石馬」は筑後、肥後、豊後に分布しており、「磐井は火・豊の二国に掩(おそ)い拠りて」に合致している。また、この有明海周辺の古墳群には「横口式家形石棺」という大きな特色がある。

 

 吉備には5世紀前半頃の「造山古墳」、5世紀中頃の「作山古墳」という大きな古墳があり、「吉備王国」が存在したとされる。ところが「作山古墳」以降は、墓の作り方が一変する。5世紀後半になると吉備地方には、「肥前・肥後」(有明海周辺)の石材と技術による新しい形式の古墳が急に作られるようになるという。「墓」の違いは、文化、習慣の違いを意味しているから、古墳の遺跡は、「吉備王国」が有明海周辺の王権、即ち「筑紫君」に支配されるようになったことを示している。日本書紀雄略7年(463年)に、吉備の国に関する記事がいくつか出てくる。その中で、「吉備下道臣前津屋」が天皇を馬鹿にしているという記述をした後、「これを聞いた天皇は、物部の兵士30人を派遣して、前津屋および族70人を誅殺したという。」と書いている。この記事は、吉備王国が滅亡し、他の権力によって支配されたことを示している。前に述べた古墳の変化とこの記事から、463年頃、「筑紫君」が吉備地方を支配するようになったことが分かる。また、「筑紫君」の支配領域「長門山口県)より以東」が吉備地方を含んでいることも確認できる。

 

 巨大古墳時代は4世紀末頃から始まるが、吉備地方が「筑紫君」に支配されるようになった5世紀の後半の頃から近畿の古墳にも大きな変化が現れる。「長持形石棺」が消滅し、これに代わって、「九州の舟形石棺」が登場する。古墳時代の最大の変革期であり、九州の菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺が河内地方等に運ばれる。「筑紫君」の領域は畿内まで拡大し、「筑紫君」は西日本を支配している。

 

 日本書紀雄略7年(463年)の吉備の国に関する記事で、もう一つの事件がある。吉備上道臣田狭は盛んに自分の妻(稚媛)が美人であることを自慢し、それを聞いた天皇が、稚媛を女御にしようと決心し、田狭を任那国司に任命して派遣し、天皇は稚媛を娶り、子供までつくったという事件である。『宋書』が記しているように、朝鮮半島南部の任那を支配しているのは倭の五王である。463年であるから、「吉備上道臣田狭」を任那に派遣したのは、倭王興である。倭王興任那と吉備地方を支配している。一方、「物部の兵士30人を派遣して」、吉備王国を滅ぼしたのは、「筑紫君」であった。吉備地方を支配しているのは、「筑紫君」であり、同時に「倭の五王倭王興)」である。即ち、「筑紫君」=「倭の五王」ということになる。

 

 また、「倭の五王」が「筑紫君」であることは、次の日本書紀の記事によっても検証される。雄略10年(466年)9月、宋に派遣されていた身狭村主青(むさのすぐりあを)が筑紫に帰って来て、筑後の三潴(水間)に上陸している記事がある。宋へ朝貢しているのは「倭の五王」である。462年に倭王興は即位すると直ちに宋に朝貢する。462年3月に宋は倭王興を「安東将軍」に任命する。翌月の462年4月、宋はそれを正式に伝えるため使者を倭国に派遣する。464年に倭王興はそのお礼を兼ねて身狭村主青等を宋に派遣する。466年身狭村主青等は帰国して倭王興に報告に行く。筑後の三潴(水間)は有明海に沿ってあり、もし、雄略天皇が居る大和へ報告に行くのだとしたら、有明海に入り、筑後の三潴に上陸することはない。倭王興が居る筑紫君の本拠地(八女市付近)に行くために有明海に入る。「倭の五王」の本拠地は筑後だから、「倭の五王」は「筑紫君」である。

 

 日本書紀倭王興雄略天皇に、倭王武継体天皇にすり替えて記していると、佃氏は指摘する。日本書紀雄略紀の記事等により、倭王興が、吉備地方を始として近畿、瀬戸内海地方を支配するようになったことを確認した。『宋書』の「倭王武の上表文」や日本書紀継体紀によって(4章で述べる「筑紫の舞」や稲荷山古墳の鉄剣の銘文などからも)、倭王武が関東まで含む日本列島と朝鮮半島南部を支配したことを理解することができる。

 

 『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)は航海や漁業、海運等に関する認識に目を見開いてくれ、古代史に新たな視点を投じて、私達に大変参考になった本である。この本の中で、長野氏は、463年頃吉備地方が侵攻された事件に触れ、この雄略帝による吉備侵攻は瀬戸内海啓開事業が真の目的であったと述べる。更に、それまで瀬戸内海は一般的には通交することができず、瀬戸内海の啓開を行なったのは雄略帝であるとし、「大和朝廷は、瀬戸内海の啓開と符牒があうように、6世紀から播磨、備前、備後、安芸を経て九州まで数多くの屯倉を開くこととなった。穀物が瀬戸内海を運べるようになったことを意味するとともに、汐待ち、風待ちで立ち寄る船乗りへの食糧供給基地をつくった。…瀬戸内海でそれを行なうことを可能にしたのが、雄略帝の啓開だったのである。」(p.118)と述べている。また、「倭国は「磐井の乱」制圧後、6世紀半ばに、国家として九州と近畿を含めた「敦賀・湖北ヤマト王国」になり、継体天皇から我が国は本格的な統治を始めた-とする武光誠氏の説に私は深く賛同する。」(p.209)とも述べている。長野氏は「海路」の観点などから詳しく見て、雄略天皇の時代に瀬戸内海が啓開され、継体天皇の時代に我が国は本格的な統治がされるようになった、と言う。長野氏と私達は大和朝廷や支配的な王権の捉え方が全く異なるが、日本書紀の雄略紀の時代、即ち倭王興の時代に瀬戸内海が支配されていき、継体紀の時代、即ち倭王武の時代に日本列島が統一的に支配されるようになったと、同じことを述べていて、大変興味深い。

 この本の姉妹編とも言える『古代史の謎は「鉄」で解ける』(PHP選書、長野正孝著)からも、いろいろなことを学ぶことができた。私たちのメンバーに中には、この本で触発され丹後半島に旅し、神明山古墳などを訪れた者もいる。

 

 もし、「倭の五王」が大和朝廷天皇で、「邪馬壹国」が奈良にあったとした場合、瀬戸内海の啓開が雄略紀、つまり倭王興の時代だと分かると、倭王讃が425年に宋に朝貢した時の海路はどのようなルートであったのか、更に遡って、247年に「邪馬壹国」に来たと『魏志倭人伝が書いている魏の張政はどのようなルートで来て、どのようなルートで帰ったのかを明らかにする必要がある。従来は、瀬戸内海を通ることが、それ程大きな問題とは考えられていなかった。長野氏が述べるような専門的な知識を歴史学は生かしていかなければならないのではないだろうか。

 


<3章> 「磐井の乱」と年号

 

 継体22年(528年)11月に物部麁鹿火が磐井を斬り、「磐井の乱」は終焉し、「筑紫より以西」は物部麁鹿火が制する。次の12月の日本書紀の記事に「筑紫君葛の子、父に座して誅されるのを恐れて糟屋屯倉を献じて死罪を讀(あがな)われんことを求む。」とある。と言うことは、磐井は「筑紫君葛」であることを示している。また、多々良川の南側にある糟屋屯倉は「筑紫より以西」であるから、筑紫君葛の子は物部麁鹿火糟屋屯倉を献じて、「死罪を讀(あがな)われんことを求」めた。北九州を支配しているのは物部麁鹿火である。

 

 『襲国偽僣考』は、倭王武が年号「善記」を建てたことを記しているが、同書は、他の古文献の記述や違う説があることにも言及している。「殷到」の項では、「…如是院年代記、教到に作る。同書に、教到元、始めて暦を作る、とあるもまた襲人のしわざなるべし。一説に正和と殷到との間に定和・常色の二年号あり。いわく定和7年に終わる。常色8年に終わる。教知5年に終わる。一説に教知に造る。又、殷到という。」と書いている。『如是院年代記』の記事も参考にして、年号「殷到」は初めて建てられた年号であること、二種類の年号が併存していることを佃氏は示す。「善記」-「正和」-「定和」―「常色」と倭王権(筑紫君)の年号が続いていく。一方、倭王権以外の新たな王権の(九州)年号「殷到」が建てられ、「殷到」-「僧聴」と続く。「殷到」は531年に始まり535年に終わり、「僧聴」は536年に始まると『襲国偽僣考』は記している。ここで、日本書紀宣化元年(536年)7月に物部麁鹿火薨去したとする記事を見る。物部麁鹿火が死去した年に、年号が「殷到」から「僧聴」に替わっている。「殷到」は初めて建てられた年号であるから、倭王(筑紫君)を倒して、九州で新たに天子となった物部麁鹿火が建てた年号が「殷到」であり、この王権の2代目の年号が「僧聴」であることが分かる。物部麁鹿火は年号をもった新たな王権を樹立している。
 糟屋屯倉を献じることで「筑紫君葛の子」は「筑紫君」として存続を許される。倭王武から始まる「筑紫君」の年号は、磐井が継ぎ、磐井死後も死罪を免れた筑紫君葛の子によって継続される。そのため、二つの「九州年号」が併存することになった。ここのところでは、重なり合って複雑な年号と歴史的事実とを、佃氏は見事に解き明かしている。

 

 日本書紀では、「磐井の乱」が終わった年を継体22年(528年)としている。王が変わると年号は変わるから、この年は、倭王権では定和元年であり、物部麁鹿火の王権では殷到元年ということになる。ところが、定和元年も殷到元年も共に531年である。この「九州年号」の考察から、「磐井の乱」が終わった年は531年であると判断できる。(始まったのは、530年)日本書紀の継体紀に次の記事がある。「…『百済本紀』を取りて文を為す。其の文に云う、太歳辛亥3月…又聞く、日本の天皇、及び太子・皇子、倶(とも)に、崩薨す。…」辛亥年は531年であり、日本の天皇が531年に崩御したと述べている。百済が日本の天皇としているのは、継体天皇ではなく、実際に交流している倭王葛(磐井)である。この記事からも、倭王葛(磐井)が死去した年は531年であること、即ち、「磐井の乱」が終わった年は531年であることを確認することができる。逆に、日本書紀はこの『百済本紀』の記事から、継体天皇の崩年を継体25年(531年)とし、一方、古事記は丁未年(527年)4月9日と、食い違った表記をしている。他の事柄からも古事記の記事のほうが正しいと判断でき、継体天皇の崩年は527年である。すると、「磐井の乱」が始まる530年には、すでに継体天皇崩御している。

 

 日本書紀は、「磐井の乱」を継体天皇物部麁鹿火を将軍として派遣して、筑紫君(倭王)を伐った事件であると記述する。しかし、継体天皇はすでに死去していて、派遣することはできない。また、磐井は西日本を支配する倭王(筑紫君)である。このことから、「磐井の乱」は主君である倭王(磐井)に対する物部麁鹿火の反逆事件であり、531年に終わることが判明した。

 

 最後に、朝鮮半島前方後円墳について、その特徴がまとめられている。6世紀前半(512年~532年)の時期に突如として出現する一世代の造営であり、被葬者は朝鮮半島の在地首長ではなく、九州北部から有明海沿岸地域出身の倭人であるという。また、戦士集団である可能性が高く、栄山江流域の前方後円墳には百済製品があり、銀被鉄釘と鐶座金具が使用された装飾木棺は百済王室からの下賜品である、と韓国の考古学者が述べている。百済と交流しているのは倭王権である。倭王権(筑紫君)によって朝鮮半島に派遣されていた武将や、531年の「磐井の乱」で敗れて朝鮮半島に逃げた倭王権の武将が、その墓として前方後円墳を築いているのではないかと、佃氏は述べる。

 


<4、5章> 「獲加多支鹵大王」と「江田船山古墳」、稲荷山古墳と「辛亥年

 

 稲荷山古墳(埼玉古墳群)から出土した鉄剣の金象嵌の銘文と江田船山古墳(熊本県玉名郡菊水町)から出土した鉄剣の銀象嵌の銘文では、ともに「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)と記されていることが判明した。銘文の解釈を含めて、定説は以下のようである。
 「稲荷山古墳(関東)の被葬者と江田船山古墳(九州)の被葬者は共に天下を治めた獲加多支鹵大王に仕えていた。獲加多支鹵大王は全国を支配しているから大和の天皇で、稲荷山古墳の鉄剣の銘文に鉄剣が作られた年が記されて「辛亥年7月」とあるから、471年(辛亥年は531年説もあるが、定説は471年)のことであり、このときの天皇雄略天皇である。つまり、獲加多支鹵大王は雄略天皇であり、倭王武でもある。」

 

 しかし、倭王武が即位するのは『宋書倭国伝からも確認できたように478年であり、471年にはまだ倭王武は即位していないので、この定説は成立しない。江田船山古墳(九州)の被葬者は「治天下獲加多支鹵大王」に仕えていたと銘文にある。この時代九州を支配していたのは、倭王(筑紫君)であり、雄略天皇ではない。従って、獲加多支鹵大王は倭王(筑紫君)である。更に、倭王讃の墓とされる石人山古墳や江田船山古墳の石棺や副葬品等から、江田船山古墳の最初の被葬者は、『宋書倭国伝の「太祖の元嘉2年」の記事に出てくる倭王珍の将軍「倭隋」であろう、と佃氏は述べる。

 

 『筑後国風土記』では、岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓としている。しかし、磐井は豊前国に逃げて死んだとも記されていることなどから、磐井は筑後の八女古墳群には埋葬されていない。また、岩戸山古墳は寿墓(生前に作られた墓)であり、磐井の死後も墓の整備が行なわれ、祀り続けられているという。このことなどから、岩戸山古墳は、倭王武の墓であることが分かる。
 一方、継体天皇は「磐井の乱」には関係しないことが明らかになったが、更に、継体天皇の出自についても考察している。継体天皇の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)に熊本県宇土産の「阿蘇ピンク石製石棺」が使われていることなどから、継体天皇の父は筑紫君の将軍であり、熊本県から近江(滋賀)に派遣されて、継体天皇を生んだのではないか、としている。

 

 最後に、古田武彦氏が『よみがえる九州王朝』(角川選書の中で詳しく紹介している「筑紫の舞」は「倭の五王」(筑紫君)が全国を支配していることを証明している、とする。また、「筑紫の舞」であるにもかかわらず、各地区の翁の中に「筑紫の翁」がなく、「都の翁」が必ずあることから、都は「筑紫」ではないかとする。更に、始終「肥後の翁」が中心になって舞が進行していることから、「肥後の翁」は江田船山古墳の被葬者とされた倭王の将軍「倭隋」などを表しているのではないかとする。「七人立の舞」に出てくる翁は各地域の王であり、ちょうどその時期その地域に立派な古墳が造られていることを、佃氏は指摘する。都の翁-岩戸山古墳、肥後の王-江田船山古墳、加賀の翁-二本松山古墳、難波津より上がりし翁-今城塚古墳、夷の翁-二子山古墳(埼玉)、尾張の翁-断夫山古墳、出雲の翁-出雲地方の古墳。この指摘も興味深いが、岩戸山古墳(八女古墳群)と二子山古墳、稲荷山古墳(埼玉古墳群)が同じ設計で作られていて、同じ形であるとする指摘も大変興味深い。

 

 5章の最初に、江田船山古墳の鉄剣の銘文は「治天下獲加多支鹵大王」と書かれており、大王が「治天下」であることを示し、最初の年号「善記」(522年~525年)を建て「天子(治天下)」となっているのは倭王武であることなどから、獲加多支鹵大王は倭王武であるとする。また、稲荷山古墳の鉄剣の銘文の辛亥年は471年が定説とされてきたが、倭王武が年号「善記」を建て、「治天下」となったのは522年であることから辛亥年は522年以降であり、辛亥年は531年が正しいとして、定説の誤りを指摘する。『百済本紀』が「日本の天皇…崩薨す。…」と記した辛亥年3月は531年3月であったが、鉄剣の辛亥年も531年である。

 

 埼玉古墳群は原野に突如として造られ、最初の「稲荷山古墳」は5世紀の第4四半期(476年~500年)頃造られたと、研究者が述べている。倭王興は463年頃「吉備王国」を滅ぼし、その直後に「東海」から「関東」に居る「毛人」を征服するために「埼玉古墳群」の人々を派遣したのだろうと、佃氏は述べる。倭王権(筑紫君)は、関東まで支配を拡げている。「稲荷山古墳」に追葬された「乎獲居臣(オワケの臣)」は、「獲加多支鹵大王」(倭王武)に仕えて大王が天下を治めるのを助け、大王が死去した後に、鉄剣を作っている。

 

 『百済本記』は、531年3月に「磐井の乱」が終わると伝える。稲荷山古墳の鉄剣がどうしてこの直後の531年7月に作られたのか、どうして銘文がこのように書かれたのかの解釈は納得できるもので、大変素晴らしい。漢字の短い文の中に込められた深い意味を多くの人にも味わっていただきたいので、是非、佃氏の論文「九州の王権」と年号(その一)に目を通していただきたいと思う。

 

 最後に「九州年号」は、鉄剣の金石文や『百済本紀』の記述と合致していることを確認し、「九州年号」は歴史学会が言うような「偽年号」や「私年号」ではなく、日本列島を支配した倭国(筑紫君)の正式な年号であると述べる。
 辛亥年は471年であるとする誤った定説は、「須恵器編年」を狂わしており、佃氏が古代史の復元⑧『天武天皇と大寺の移築』で指摘した飛鳥寺に関する誤った定説も「須恵器編年」を大きく狂わしているとして、現在の考古学について苦言を呈している。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その一)-「倭王武」と年号-(「磐井の乱」は「辛亥年(531年)」)】(62号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-

Ⅱ.「九州の王権」と年号(その二)-「物部麁鹿火王権」と本拠地-(「物部氏」の研究)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(63号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。

 

 『古事記』が天皇家の氏族伝承をまとめたものとすれば、『先代旧事本紀』(10巻本)は物部氏の氏族伝承を伝えている。江戸時代中頃より異端の書という説が流され、今日まで十分な評価がされていないと言われる本である。「九州年号」と同じように、他の古文献や考古学的資料と共に活用し総合的に判断していくという、佃氏の立場に賛成である。『先代旧事本紀』(以下、『旧事本紀』と略記する)を抜きに、物部氏の研究はできないのではないだろうか。
 既存の古代史では、「有力氏族である物部氏は軍事を中心に大和朝廷の中でどのような役割を果たしたのだろうか。」という観点から、物部氏が論じられる。しかし、「九州の王権」と年号(その二)、(その三)を読むと、それまでの物部氏の見方は一変する。


<1章> 「物部麁鹿火王権」

 

 倭王武の上表文に「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海平を平らげること95国」とあるように、倭国は日本列島の大部分と朝鮮半島の国々を支配していた。この倭王が家臣の大連物部麁鹿火によって伐たれた事件が「磐井の乱」であった。継体天皇は、「長門より以東は朕これを制す。筑紫より以西は汝これを制せよ。」と物部麁鹿火に述べた。(日本書紀)新たに「筑紫より以西」の支配者になったのは、物部麁鹿火である。また、前に見たように、継体天皇は実際には倭国の将軍か何かで、権力を持っていない。物部麁鹿火が(九州)年号をもつ新王権を樹立している。この王権を「物部麁鹿火王権」と呼ぶことにし、この章では「物部麁鹿火王権」の基本的事項を整理する。

 

 『旧事本紀』巻第3天神本紀で「天つ物部等二十五人。同じく兵杖を帯びて天降り供奉る。」とあるように、「天火明命」(あめのほあかりのみこと)は「天つ物部」などを従えて、天下る。「天つ物部」には鞍手郡を中心とする北九州の地名が多くついていることなどから、物部氏は「天火明命」を守りながら渡来して、北九州に住み着いていることが分かる。次に、『旧事本紀』巻第5天孫本紀を見て、物部氏の系譜を検討する。日本書紀に書かれているように、12世物部木蓮子物部麁鹿火に娘(宅媛)を差し出していること、13世物部尾輿物部麁鹿火と同世代人であること、物部守屋物部麁鹿火と同世代であるはずがないこと、などから『旧事本紀』の系図の誤りを指摘し、整合性がある系図に復元する。更に、日本書紀の記事から、筑紫君葛(磐井)の子や12世物部木蓮子、13世物部尾輿などから順に領土(屯倉)を獲得していくことを確認し、物部麁鹿火が権力基盤を確立していく様子を示す。北九州に住み着いている物部氏の頂点の者には、名前の前に××世が付いている。しかし、物部麁鹿火には、××世が付いていないので、物部氏内では地位が高くないことが分かる。そのため、自分の力で次々に領地を確保し、権力基盤を確立して、年号をもつ北部九州の「天子」になっていく。

 

 日本書紀継体天皇の崩年を継体25年(531年)としている。ところが、日本書紀「(安閑)元年正月…(中略)是年、太歳甲寅。」と書かれている。太歳甲寅は534年である。継体天皇の次の天皇安閑天皇であり、即位が534年だと言う。日本書紀の記述では、継体天皇が531年に崩御した後の3年間がどこかへ消えてしまった。この間違えがどうして起ったかについての理由も、佃氏は指摘している。また、日本書紀安閑紀、宣化紀、欽明紀の記述は物部麁鹿火王権についての記述であることを、記事に即して示している。安閑紀、宣化紀、欽明紀の始まる年が物部麁鹿火王権の「九州年号」である「殷到」-「僧聴」-「明要」の始まる年とほぼ同じことも、このことを示唆しているのではないだろうか。(次章の表参照)

 

 日本書紀「継体23年(532年)4月、毛野臣、熊川に次(やど)りて新羅百済の王を召し集む。」と記されている。532年に「毛野臣」は、新羅百済の王に天皇の詔を伝えるために朝鮮半島に渡る。ところが王は来ず、逆に新羅の使者が兵三千を率いて来たことに「毛野臣」は恐れをなして任那に逃げ、結局金官を含む四村が新羅に侵略される、という事件である。531年までは倭王(筑紫君)が朝鮮半島の国々を支配していた。532年だから、「磐井の乱」で新たに王となった物部麁鹿火が、倭王に代わって、朝鮮半島に乗り出す。「毛野臣」は麁鹿火王権の詔を伝えに行くが、物部麁鹿火王権の実力を新羅百済に見破られて、逆に任那の一部を失うことになったと、佃氏は事件の真相を語る。物部麁鹿火朝鮮半島の支配に失敗している。

 

 次に、物部麁鹿火王権の本拠地と古墳についてまとめる。物部麁鹿火は筑紫君葛の子から糟屋屯倉(多々良川の南側)を得、12世物部木蓮子から難波屯倉(多々良川の北側)を得て、多々良川を含む領域を確保している。物部氏の中では地位が高くない麁鹿火は、九州物部氏が支配する遠賀川を避け、多々良川の水利権を手に入れ、多々良川上流の嘉穂郡桂川町に本拠地を定めている。桂川町にある「桂川王塚古墳」は物部麁鹿火の墓であるとする。この古墳の石室は遠賀川流域では最大であり、作られた時期、装飾、副葬品などから、まさに麁鹿火の墓にふさわしい。
 尚、度々出てくる多々良川河口にある「難波」は大阪にあるのではなく、筑前国宗像郡にあることを、続日本紀、『続日本後期』などの記事からも確かめている。
 最後に倭王権(筑紫君)の支配領域が九州~関東、出雲~越の日本海側、朝鮮半島南部であったのに対して、物部麁鹿火王権の支配領域は「筑紫より以西」(筑前肥前)のみで、大きな支配領域を確保していないことを確認する。

 


<2章> 「任那復興」と「任那日本府

 

 日本書紀巻第19欽明紀は、最初の数ページで即位した経緯、妃、皇子、皇女等について記述し、後はほとんどすべて朝鮮半島の出来事を記述している。ページ数で言うと、小学館日本書紀」では、「欽明紀」は100ページを超えている。一方、古代史最大の戦いといわれる「壬申の乱」は巻第28「天武天皇上」に詳しく述べられているが、「天武天皇上」のページ数は同じく小学館日本書紀」では50ページに満たない。日本書紀を読んでいくと、この「欽明紀」の異様な長さに驚かされるが、いかに多くのページ数が割かれているかが改めて確認できる。日本書紀は「任那復興」を「壬申の乱」と同様に最も重要視していると言うことができる。これに対して、「日本の歴史学」は「任那復興」を余り重要視していないとして、佃氏は「日本の歴史」を解明するためにも、「任那復興」の重要性を認識して、しっかりと解明すべきであると提言する。

 

 難解な「任那復興」を理解するために、最初に問題を整理する必要がある。562年、最終的には新羅任那を滅ぼし、10カ国を得る。その前に、532年「毛野臣」が3千の兵の新羅を恐れたため、南加羅金官加羅)が新羅に奪われる。また、540年までにとく己呑(とくことん国)・卓淳国の2国が新羅に奪われる。計3カ国が新羅に奪われた。日本書紀の以上の記事より、任那朝鮮半島南部にある南加羅加羅国、安羅国等13カ国の総称であることが、まず確認できる。任那各国には代表者(旱岐等)が居るが、その上に「任那の執事」、「日本府の執事」がおり、「任那日本府」は安羅国に設置されていることが日本書紀の記事から分かる。日本書紀欽明5年(544年)3月の記事では「…それ任那は安羅を以って兄と為し、唯その意に従う。安羅人は日本府を以って天と為し、唯その意に従う。…」とある。任那諸国は、「任那日本府」の支配下にある。531年までは、任那の13カ国は、「任那日本府」の支配下にあり、その後、3カ国が新羅に奪われている。

 

 次に「任那日本府」が設置された経緯を調べる。日本書紀と『宋書』の記述より、451年~464年の間に設置されたことを確定する。『宋書』に、宋王朝倭王済に対して「安東将軍」に「使持節都督、倭、新羅任那加羅、秦韓、慕韓6国諸軍事」を加えた、という記事がある。この記事と、倭王興の在位年462年~477年などから考えて、倭王興の前の倭王済が451年~461年の間に設置したと考えるのが妥当であると判断している。

 

 (欽明)2年(541年)4月、安羅・加羅等の任那各国の代表者達と任那日本府吉備臣は百済に行き、(日本の天皇の)詔書を聴く。「百済聖明王任那の旱岐等に謂いて言く、『日本の天皇の詔する所は、全てを以って任那を復建せよとなり。今、何の策を用いて任那を起こし建てむ…』という。」と記されている。更に、聖明王は「お前達と力を合わせ、心を一つにして、天皇の威力をこうむれば、任那は必ず復興するだろう。」と言い、各々に応じて贈物をしたので、皆喜んで帰った、と日本書紀には書かれている。これが、「任那復興」の始まりである。南加羅・とく己呑(とくことん国)・卓淳国3カ国を新羅から奪い返すことが、「任那復興」である。

 

 ところが、早くも同年(欽明)2年(541年)7月「安羅の日本府と新羅は計(はかりごと)を通(かよわ)す」とある。「任那日本府」の「河内直」は「任那復興」を妨害している。百済は、「任那日本府」に居る4人が妨害するので「任那復興」ができない、早く任那から4人を追い出し、本国に返してくれと何度も要求する。「欽明5年(544年)11月、又吉備臣・河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都、猶任那国に在れば、天皇任那を建て成せと詔すると雖も得ることは出来ないであろう。請う、此の四人を移し、各其の本の邑に還し遣わせ。」と聖明王は策を述べる。

 

 「任那日本府」は「日本の天皇」に従うのではなく、妨害している。この理由を明確にするために、少し寄り道をして、「宿禰」、「連」について整理する。記紀の記事の考察から、「宿禰」は貴国(364年~407年頃)の称号であり、「大連」「連」は倭王権(筑紫君)の称号であり、物部麁鹿火王権になっても使い続けられたことが分かる。(尚、後の684年に天武天皇によって、「八色の姓」が整理されたことにより、「宿禰」、「連」は姓(カバネ)となった。)
 「任那日本府」の「吉備臣」は、吉備から倭王(筑紫君)によって、任那に派遣されている。また、「佐魯麻都」は大連であるので、倭王権(筑紫君)の臣下である。このように、「任那日本府」の官吏たちは、倭王権(筑紫君)が派遣し、「任那日本府」は、約100年間任那諸国を支配してきた。

 

 次に、「任那復興」は「日本の天皇」の詔から始まっているが、この「日本の天皇」について整理してみる。その前に、『襲国偽僣考』の記述から、物部麁鹿火王権の年号を整理し、殷到(531年~535年)-僧聴(536年~540年)-明要(541年~552年)とする。日本書紀「(欽明)元年(540年)9月、難波祝津宮に幸す。大伴大連金村・許勢臣稲持・物部尾輿等、従う。天皇、諸臣に問いて曰く、『幾許の軍卒をもて新羅を伐つことを得るや』という。」この天皇は、540年であるので、物部麁鹿火王権の2代目である。2代目は、どれだけの軍勢があれば新羅を伐てるかと、群臣に問うている。直接、実力で新羅を伐つ事を考えている。その後の「任那復興」が始まるときの「日本の天皇」の詔は、(欽明)2年(541年)4月であるから、物部麁鹿火王権の3代目ということになる。「任那復興」は、3代目が即位した直後に企てられている。3代目は、「任那復興」の詔を百済聖明王に伝えてもらっている。百済の力を借りて、新羅を伐とうとしている。2代目と3代目の考え方が全く異なる。

 

 「任那復興」は「日本の天皇」が直接、任那諸国や「任那日本府」に命じて行なわれたのではなく、百済聖明王を通して行われている。「任那日本府」を設置したのは、倭王権(筑紫君)であり、「任那日本府」の官僚は倭王権が派遣して、そのまま残っている。物部麁鹿火王権は、倭王権を倒したが、朝鮮半島支配には失敗しており(「毛野臣」の事件)、「任那日本府」や任那諸国を支配できずにいる。そのため、「任那日本府」や任那諸国に直接命令できないのだと、佃氏は明らかにする。更に、「任那日本府」の官僚たちにとっては、このときの「日本の天皇」である物部麁鹿火王権は主君である倭王権(筑紫君)を伐った憎い存在であった。

 

 百済高句麗と戦争になり、百済が危うくなる。新羅高句麗と手を結び、百済を滅ぼそうとする。欽明15年(554年)12月聖明王は戦死する。日本書紀「(欽明)23年(562年)春正月に、新羅任那の官家を討ち滅しつ。」とあり、遂に新羅によって任那は滅ぼされる。任那日本府が設置されてから、百年以上任那南朝鮮)は日本の支配下にあった。これによって、朝鮮半島で直接支配する国は無くなる。やはり日本にとって大問題である。この部分の日本書紀の記述は、生々しさを感じる。

 

 強大な力を持ち、朝鮮半島を支配した倭王権に対して、「任那日本府」さえ支配できない物部麁鹿火王権の力は弱い。これが、「任那復興」が終焉した理由である。
 佃氏の叙述の通りに、実際に朝鮮半島に力を及ぼした倭王権(筑紫君)、物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)とそれぞれの「九州年号」、そして日本書紀が述べる天皇を示す表を作ってみた。

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 ※ この表では、「雄略」と「継体」の間には、「清寧」「顕宗」「仁賢」「武烈」が入るが、スペースの関係から省略した。また、「継体」と「安閑」の間は、本文で少し触れたように、日本書紀には記載がないので「?」としておいた。表の中に文字を入れる関係から、表の幅は必ずしも年の長さに対応していないので、この点はご容赦を願います。

 

 この表を見ると、日本書紀倭王興の事績を雄略紀として記述し、倭王武の事績を継体紀として記述しているのがよく分かる。年代的に重なっているからである。倭王権-物部麁鹿火王権-阿毎王権と続く三王権の実際の朝鮮半島での出来事を、大和朝廷の出来事として、日本書紀は述べる。欽明紀はほとんどが「任那復興」に関する記事であるが、物部麁鹿火王権の2代目の朝鮮半島への対応、3代目の朝鮮半島への対応、阿毎王権初代(物部尾輿)の朝鮮半島への対応を、すべて欽明天皇一人の事績として述べている。これでは、「任那復興」は超難問になる。欽明紀が異様に長くならざるを得ない理由も、ここにあるのだろうか。

 


<3章> 「大和の物部氏」と「九州の物部氏」(「物部氏」の研究)

 

 『旧事本紀』巻第5天孫本紀は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、亦の名は天火明命…亦は云う饒速日命…」が「…天神御祖の詔を禀(うけ)て天磐船に乗て天降まして河内国の河上哮峯(かわかみのいかるがのたけ)に坐す。即ち遷て大倭国鳥見白庭山に坐す、天降之儀は、天神紀に明なり。」と述べることから始まる。

 

 古事記では「…此の御子の、高木神の女、万幡豊秋津師比売命に御合して、生みし子、天火明命、次に、日子番能邇邇藝命、二柱ぞ。」とある。さらに、「邇邇藝命(ににぎのみこと)」は「竺紫の日向」(ちくしのひなた:福岡市西区)に天孫降臨したと述べている。1章で触れたように、紀元前2世紀末頃、「天火明命」は北九州に天孫降臨する。一方、日本書紀神武即位前紀では、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」は、「天の磐船に乗り」、「天より降る」とある。神武東征は3世紀中頃の出来事であるから、3世紀中頃に「饒速日命」は「長髄彦(ながすねひこ)」の妹御炊屋媛を娶り、「可美真手命(うましまでのみこと、宇摩志麻治命)」を生む。この「宇摩志麻治命」は、舅の「長髄彦」を殺して、神武天皇に帰順し、神武東征は成功する。「饒速日命」と「長髄彦」や「宇摩志麻治命」との関係では、日本書紀と『旧事本紀』は全く同じ内容を記している。
 尚、この日本書紀神武即位前紀の記事では、続けて「…饒速日命…此物部氏が遠祖なり。」とも記されている。

 

 「天火明命」は紀元前2世紀末頃、北九州に天孫降臨する。一方、神武東征の少しだけ前の紀元3世紀中頃に「饒速日命」は「河内国の河上哮峯」に天降る。『旧事本紀』は500年ほど隔たりのある二つのことを一つのことにしてしまっているとして、まず、『旧事本紀』の誤りを指摘する。そのため、名前も「天火明命」と「饒速日命」の二人の名を重ねて「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」としているとし、『旧事本紀』は誤りが多いと、佃氏は述べる。

 

 日本書紀では、「饒速日命」は「物部氏が遠祖」であると書かれている。『旧事本紀』でも、物部連等の祖は、「饒速日命」の子の「宇摩志麻治命」であると書かれている。そこで、佃氏は『旧事本紀天孫本紀に書かれている系譜を丹念に考察していく。「宇摩志麻治命」から始まる系譜の名前の表記を見ると、7世までは「物部」が付いていない。ところが、8世以降は「物部」が付いている。6世に属する「伊香色雄命」、7世に属する「十市根命」、8世に属する「物部膽咋宿禰」や11世に属する「物部目大連公」などについての日本書紀や『旧事本紀』の記事の内容に着目する。7世までは、「石上大神」の記述などから、大和での出来事が記されているので「大和の物部氏」であり、8世以降は、「筑紫聞物部大斧手」の記述などから九州の出来事が記されているので「九州の物部氏」であることをつきとめる。

 

 物部氏には、日本に渡来した時期、地域によって二通りの物部氏がある。「大和の物部氏」と「九州の物部氏」である。「天火明命」は「天つ物部等二十五人」を従えて、北九州に天下る。物部氏は「天火明命」を守りながら渡来して、北九州に住み着いている。紀元前2世紀末のことである。これが、「九州の物部氏」となっている。
 一方「大和の物部氏」の遠祖は「饒速日命」である。「饒速日命」は紀元3世紀中頃、「河内国の河上哮峯」に天降る。子の「宇摩志麻治命」は神武天皇に帰順し、神武を大いに助けて、大和に居住し、その子孫達は「大和の物部氏」となる。

 

 これらの考察を更に進めて、佃氏は『旧事本紀』の問題点も指摘している。まず、7世までの物部氏は「大和の物部氏」であり、8世以降の物部氏は「九州の物部氏」であるので、7世から8世につながる親子関係は成り立たないことを指摘する。また、物部氏の名前の後につく「宿禰」、「連」の考察から、「連」は倭王讃が最初に制定したと判断できるので、9世に属する「物部五十琴宿禰連公」より前の物部氏の名前に「連」がついているのは、『旧事本紀』の編集者が、当時の知識から判断して、遡って付けたのではないか、と指摘する。

 

 それでは、この「大和の物部氏」と「九州の物部氏」がどのように繋がるかについては、古墳から明らかになる。「大和の物部氏」の始祖である「饒速日命」の墓は、箸中古墳群の中の「ホケノ山古墳」であると考えている。この古墳の作られた年代は3世紀中頃であり、「石囲い木槨墓」である。この埋葬施設は、韓国蔚山(ウルサン)・中山里古墳(2世紀末~3世紀前半)に酷似しているという。更に、韓国蔚山弥生式土器は、遠賀川以東様式が主体をなす、と研究者が述べている。九州の遠賀川以東には、「天孫降臨」のときに高天原から「天火明命」に従って「九州の物部氏」が渡来している。

 

 「天氏」と「物部氏」は「高天原(韓国泗川)」に住んでいた。「天孫降臨」のとき、物部氏の一部は、「天火明命」とは行動を別にして、「高天原(韓国泗川)」から蔚山(ウルサン)へ逃げたのではないか。そのため蔚山では、北九州に天下った「九州の物部氏」と同じ遠賀川以東様式の弥生式土器が使われている。この数百年後の220年~230年頃、「卑弥呼」は朝鮮半島倭国(卑弥国)から北部九州へ逃げてくる。この時期、朝鮮半島南部では公孫氏による大規模な侵略、討伐が行なわれたのではないか。そのため、同じ220年~230年頃、この物部氏の一部(饒速日命)は、蔚山(ウルサン)から逃げて、大和に渡来し、「大和の物部氏」の始祖となる。そして、死去するとき、故郷蔚山の墓と同じ「木槨墓」に埋葬された。ともに「天氏」を守る「物部氏」であるが、日本への渡来の時期、地域によって「九州の物部氏」と「大和の物部氏」となる。

 

 私達が勉強する際、『先代旧事本紀』だけでなく古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』(勉誠出版安本美典著)に書かれていることや表(P117)などが参考になった。安本氏にも感謝を表したい。

 


<4章> 「仏教伝来」と物部麁鹿火王権

 

 日本書紀には、欽明13年(552年)10月百済聖明王が釈迦仏の金銅像、幡蓋、経論を献上したという記事があり、これは仏教公伝とも言われている。一方、『元興寺伽藍縁起並びに流記資財帳』には欽明天皇の御世、「治天下7年歳次戊午(538年)12月」に聖明王が太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書を渡したと書かれている。また、『上宮聖徳法王帝説』にも欽明天皇の御世の戊午年(538年)に聖明王が「始めて像・経・教並びに僧等」を贈ったとある。仏教伝来は、「538年」説と「552年」説がある。論文の中で詳しく説明されているように、日本書紀の他の記事から、547年には百済から僧が来ていることが確認でき、「538年」説が正しく、「552年」説は誤りであると結論することができる。

 

 更に、『元興寺伽藍縁起』の「治天下7年歳次戊午(538年)」に注目し、誰の「治天下7年」であるかを考察している。欽明天皇の在位期間には「戊午年」はなく、「治天下7年」から宣化天皇にも当てはまらないとし、結局、物部麁鹿火が年号「殷到(教到)」を建てた年(531年)から数えて7年目と考えることができる。仏教伝来は、物部麁鹿火王権下での出来事である。前に日本書紀の記事から確認したように、麁鹿火は536年に死去するから、仏教伝来の538年は物部麁鹿火王権の2代目が即位して2年後に当たる。物部麁鹿火王権の2代目の年号は「僧聴」であり、仏教伝来と年号の意味とがぴったり合致している。

 

 日本書紀は「倭の五王」を「大和朝廷」の「国造」としている。しかし、「天子(治天下人)」は(九州)年号を建てている「九州王権」である。百済からの仏教伝来も、「治天下7年」と(九州)年号「殷到(教到)」を規準にして記述されている。「安閑天皇」「宣化天皇」「欽明天皇」は年号を建てることもできない「大和の豪族」である。日本書紀の呪縛から解放されるには、古事記の「崩年干支」と「九州年号」を研究すべきあり、そのことから物部麁鹿火や12世物部木蓮子物部尾輿が「九州の物部氏」であることが分かると、佃氏は最後に提言を述べる。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その二)-「物部麁鹿火王権」と本拠地-(「物部氏」の研究)】(63号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

Ⅲ.「九州の王権」と年号(その三)-「俀国(阿毎王権)」とその歴史- (『隋書』の「俀国」は九州の物部氏)

※ この文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の上記表題の論文(64号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。

 

 岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』は、1951年に発行された。その譯注『隋書』倭国伝の部分では、注で、「『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。」と書き、巻末の附録・原文では、9個ある「俀」(たい)の字をすべて「倭」(わ)の字に直した活字で記している。これに対して、1985年に発行された新訂版では、注で、「『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。附録、原文参照」と一部文言(傍線部分)を付け加え、巻末の原文には原書の影印を載せてあるため、9個の「俀」の字は「倭」と直されず、そのまま「俀」と書かれている。ただし、原書の影印では、文書の初めに「俀国」と表題が示されているにもかかわらず、この文書の表題は相変わらず「倭国伝」と記されている。文庫はすぐに手に入るので、誰でも確認することができる。私達は、「俀国」と「倭国」は違う国であるので、書き直すべきでないと考えている。

 


<1章> 阿毎王権(『隋書』の俀国)の誕生

 

 日本書紀欽明13年(552年)10月の記事では、百済聖明王が釈迦仏の金銅像、幡蓋、経論を献上したと述べられ、続いて、「天皇、聞き已(おわ)りて、歓喜し、踊り跳ね、使者に詔して云う、『朕、昔より来(このかた)、未だ曾(かつ)て是の如き微妙之法を聞くことを得ず。…』という。」と記されている。
 前の論文で考察したように、538年に百済聖明王が太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書を渡し、仏教は既に日本の天皇に伝わっている。また、仏教伝来は、物部麁鹿火王権の2代目の時で、年号は「僧聴」であった。更に3代目の時には、百済から僧7人が来ている。552年10月の記事では、天皇は「未だ曾(かつ)て是の如き微妙之法を聞くことを得ず」と述べ、「歓喜し、踊り跳ね」たとする。このことは、「552年10月」の天皇は、物部麁鹿火王権の天皇ではないことを示している。

 

 『襲国偽僣考』の年号を注意深く考察し、『如是院年代記』や『二中暦』の記述も参考にしながら、記された年号の重なり具合を読み解いていく。その結果、物部麁鹿火王権の年号は、殷到-僧聴-明要で終わり、後につながる年号はないことが分かる。また、倭王権(筑紫君)の年号は善記から始まり、善記-正和-定和-常色-…-法清-兄弟-蔵知-師安-知僧とつながっていく。これらに対して、『襲国偽僣考』の「九州年号」は、同一王権では全て在位年が重ならないように記されているにもかかわらず、年号「貴楽(552年~569年)」は物部麁鹿火王権の年号「明要」(541年~552年)と552年が重なっている。このことから、貴楽-金光-賢棲-鏡常-勝照-政端-告貴-願転-光元と貴楽から始まる年号は、物部麁鹿火王権とは別の王権が誕生していることを示している。上に述べた、日本書紀の記事「552年10月」の天皇物部麁鹿火王権の天皇ではないことを、年号の上からも確認できる。

 

 次に、年号「貴楽(552年~569年)」から始まる新王権の本拠地を特定する。新羅の使者、肥後の芦北出身で百済の達率(第2位の高官)になった「日羅(にちら)」、新羅任那の使い、隋の「裴世清」に対する応対や接待について述べたいくつかの日本書紀の記事から、日羅や新羅任那の使いが泊まった「阿斗」は「飯塚市」であり、新羅任那の使いが安置された館の「阿斗の河辺」は遠賀川の川辺であり、この近くに都があり、この王権の本拠地は鞍手郡であると理解できる。鞍手郡物部氏の本拠地であることから、新王権は九州の物部氏である。

 

 『隋書』俀国伝は、俀国が600年に初めて隋に朝貢し、607年にも朝貢し、608年には隋から「文林郎裴清」が遣わされ、「…又竹斯国(筑紫国)に至る。又東秦国に至る。…又十餘国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆俀国に附庸す。」と記している。『隋書』は、俀国が「筑前」と「豊前」を支配していることを示している。「文林郎裴清」は「裴世清」である。俀国は鞍手郡物部氏であった。このことは、『隋書』の記述からも明確に分かる。『隋書』は、俀国では鵜飼をして魚を捕り、近くに「阿蘇山」があり、「その石は、故なくて火が起こり天に接する」火山であることを記述している。また、最初の地理的記述内容からも、俀国は九州にあり、どう考えてみても大和にはない。王の「多利思比孤」が隋の煬帝に対して「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云々」と述べた俀国は、鞍手郡を本拠地とする物部氏の国である。

 

 「倭の五王」の「倭国」は筑後の八女古墳群付近を根拠地として、410年頃から「磐井の乱」の終わる531年まで支配を続け、531年以降も物部麁鹿火王権の下で、年号を建て「筑紫君」として存続している。(前論文2章の表参照)一方、「俀国」は鞍手郡を本拠地とする物部氏の国であり、552年から636年まで支配を保ち、隋に朝貢している。「倭国」と「俀国」は全く別の国である。

 尚、既存の古代史は、岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』のように、「俀国」を認めず「倭国」としているため、「俀国」と書くと、「倭国」であると解釈されてしまう。そのため、佃氏は『隋書』俀国伝に書かれている俀王の姓「阿毎」をとって、「俀国」を「阿毎王権」と記す。

 


<2章> 阿毎王権

 

 物部麁鹿火王権に代わって誕生した「阿毎王権」は、鞍手郡を本拠地とする物部氏であるから、物部氏の頂点の者が「天子」となる。やや複雑であるので先に結論を述べる。552年に13世物部尾輿物部麁鹿火王権3代目から王権を奪い、「俀国」(「阿毎王権」)を確立する。その年号は貴楽(552年~569年)である。2代目は、14世物部大市御狩連公であり、その年号は金光(570年~575年)-賢棲(576年~580年)-鏡常(581年~584年)と続く。3代目は、15世物部大人連公であり、その年号は勝照(585年~588年)-端政-告貴-願転-光元(605年~610年)とできる。3代目の15世物部大人連公は、日本書紀に出てくる「押坂彦人大兄皇子」であり、『隋書』に出てくる俀王「多利思比孤」でもある。(前の論文2章の表参照)

 

 12世物部木蓮子大蓮は娘の「宅媛」を物部麁鹿火の妃にしている(日本書紀)から、当然「阿毎王権」の初代は13世以降ということになる。貴楽(552年~569年)が在位年であることや、物部守屋は14世物部大市御狩連公の弟であり、物部守屋が急に活躍し出すのが585年であることなどから、初代は13世物部尾輿以外には考えられない。(後でも述べるが、14世物部大市御狩連公が584年に死去し、兄が亡くなって急に物部守屋が活躍するようになる。)日本書紀は「倭王権(筑紫君)」、「物部麁鹿火王権」、「阿毎王権」を抹殺して、すべて大和朝廷の出来事として記述している。そのため、物部尾輿天皇になったとは書けないので、最後まで天皇の臣下として記述する。また、「阿毎王権」(俀国)は「仏教を敬う仏教国」であると『隋書』俀国伝に記されている。しかし、日本書紀では、物部尾輿は仏教の受容に反対したという記述をしている。これも日本書紀が記事を書き変えていると考えることができる。

 

 次に「阿毎王権」の2代目を考察する。前論文の2章の表で確認できるように、2代目の14世物部大市御狩連公の事績は日本書紀では敏達紀に記述される。ところが、日本書紀敏達紀は複雑であるので、佃氏はまず敏達紀を検討する。


 
 宣化天皇は「大和の豪族」であり、日本書紀敏達紀の最初に、敏達天皇の母は宣化天皇の女(娘)であると記されていることから、敏達天皇も「大和の豪族」であると思われる。しかし、それに続いて、「天皇、仏法を信(う)けたまはずして、文史を愛みたまふ。」とある。これは、「阿毎王権」が「仏教を敬う仏教国」であることに反している。どうしたことであろうか。また、天皇が(敏達)元年(572年)4月に百済大井に宮殿を造ったと述べ、(敏達)14年(585年)8月に天皇は死去したとしている。「百済大井」から、敏達天皇肥前国神埼郡の人であることが分かる。

 

 一方、古事記敏達天皇の崩年干支を示し、584年に死去したとする。この崩年干支が示す年は、阿毎王権の年号「鏡常(581年~584年)」の終わる年に一致している。また、14世大市御狩連公の弟の物部守屋が急に活躍し出す585年の前年に当たる。そこで、古事記が崩年干支を示しているこの敏達天皇は「阿毎王権」の2代目(14世大市御狩連公)であり、仏法を敬っており、鞍手郡を拠点とし、584年に死去したと考えることができる。

 

 前に、日本書紀百済大井に宮殿を造ったと述べる敏達天皇は、神埼郡の人であり、仏法を信じず「文史を愛み」、585年に死去している。日本書紀はこの2人の人物の事績を1人の敏達天皇の事績として記述している。そこで、「阿毎王権」の2代目としての敏達天皇を「敏達(阿毎)」と記し、百済大井に宮殿を造った敏達天皇を「敏達(百済)」と記して、区別する。「敏達(阿毎)」は「阿毎王権」の2代目である14世物部大市御狩連公である。他方、「敏達(百済)」は『新「日本の古代史」(下)』の中の論文「「九州の王権」と年号(その四)」で述べられているが、舒明天皇の祖父に当たる人物である。

 

 実際の敏達天皇は「大和の豪族」であると思われるが、日本書紀敏達紀では、「阿毎王権」の2代目である「敏達(阿毎)」(=14世物部大市御狩連公)の記事と「敏達(百済)」の記事が1人の敏達天皇の記事として記述されている。百済新羅、高麗など朝鮮半島の国々との交流を述べた記事などは「敏達(阿毎)」の記事である。一方、仏法を信じず「文史を愛み」という記事や百済大井に宮殿を造ったという記事、また「豊御食炊屋姫尊を立てて皇后とす。」などの記事は「敏達(百済)」の記事である。

 

 3代目は15世物部大人連公であり、年号「勝照」を建て、2代目の14世大市御狩連公が584年に死去した翌年585年から「天子」となる。前に少し触れたように、この年から、2代目の14世物部大市御狩連公の弟で、15世物部大人連公の叔父である物部守屋が突然に登場して、天皇に対して無礼な口を利くようになる。兄が死去して、「阿毎王権」の王統が585年に2代目から3代目に代わる。叔父である物部守屋が甥である15世物部大人連公に対して横柄になったことは、王統が585年に代わったことに符合している。


 日本書紀は、「押坂彦人大兄皇子」は敏達天皇の子であると述べる。「敏達(阿毎)」の太子であるから、2代目の14世大市御狩連公の太子であり、3代目の15世物部大人連公ということになる。

 

 15世物部大人連公の後は、16世物部耳連公、17世物部連公麻呂と繋がっていくが、17世物部連公麻呂は天武天皇から「物部朝臣」の姓をもらっていることなどから、15世物部大人連公の在位は、勝照(585年~588年)-端政-告貴-願転-光元(605年~610年)であるとできる。すると、600年~607年まで隋に朝貢した阿毎王権の王「多利思比孤」は15世物部大人連公ということになる。15世物部大人連公=「押坂彦人大兄皇子」=「多利思比孤」である。


 隋の煬帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書を送っているのは、推古天皇でも聖徳太子でもなく、「阿毎王権」の3代目の15世物部大人連公である。「大人(たいじん)」の名は、100年程途絶えていた中国との交流を始め、隋の煬帝に対して自分は「日出る処の天子」であると対等に述べているこの「天子」の名にふさわしいのではないか。

 

 この他、佃氏は、他の記事と併せて「百済大井」は肥前神埼郡にあることを示すために、日本書紀の次の記事の説明をしている。日本書紀「皇極元年正月…乙酉に、百済の使人大仁阿曇連比羅夫、筑紫国より駅馬に乗りて来て言さく、『百済国、天皇崩りましたりと聞りて、弔使を奉遣せり。臣、弔使に随ひて、共に筑紫に到れり。而るに臣は葬に仕へまつらむことを望む。故、先ちて独り来り。然も其の国は、今し大きに乱れたり』とまをす。」佃氏から、次の様にお聞きしたことがある。「この記事は、大和朝廷が日本を支配していたとする歴史に、最初に強く違和感をもった記事です。」

 舒明天皇の葬儀に際して、百済に派遣されていた「阿曇連比羅夫」は百済の弔使と共に筑紫に来た。その後、葬儀に仕えたいので、先に「駅馬に乗」って、「独り」で筑紫から来たという。実際、都が大和にあるのなら、筑紫から「駅馬に乗」っていくことはできない。都は、筑紫から「駅馬に乗」っていくところ、即ち九州にしか在り得ない。岩波書店刊でも小学館刊でも構わない。日本書紀皇極元年正月の記事を是非見てほしい。佃氏は熊本県玉名市出身で、九州や有明海周辺の土地についてのことがよく分かるので、このようなことに気づいたのではないかと思った。

 

 この章の叙述は、年号の考察などかなり複雑なところもあるので古代史の復元シリーズ」⑥『物部氏蘇我氏と上宮王家』を併せて読むと理解が深まるのではないかと思う。

 

 王統の次ぎに「阿毎王権」の支配領域を見る。日本書紀の記事から、「蘇我稲目」を派遣し、555年「吉備の五郡に白猪屯倉」を設置し、556年「備前の児嶋郡」に屯倉を設置し、「倭国高市郡」や「紀国」にも屯倉を設置していることが分かる。順に西から東に屯倉を設置していく。「蘇我稲目」を派遣した王権は、当然「吉備」より西にあるから、大和にあることはない。また、「大和朝廷」が「倭国高市郡」に屯倉を設置することもあり得ないのではないだろうか。従来は、「大和朝廷」が「蘇我稲目」を派遣したとしてきた。あり得ない事である。「阿毎王権」の支配領域は、筑前肥前豊前、瀬戸内海沿岸、大和の高市郡、紀国とほぼ西日本全体に及んでいる。

 

 次に、天子の下に王や軍尼を置く統治機構を築いていることの他、この王権の官位制度に触れている。『隋書』俀国伝には、開皇20年(600年) に俀国が朝貢してきて、内官に「徳・仁・義・禮・智・信」の大小12階がある、と示されている。一方、日本書紀は「(推古)11年(603年)12月始めて冠位を行う」とあり、冠位12階を示している。日本書紀の12階は「徳・仁・礼・信・義・智」の大小12階と一部順番が変わるだけで、ほぼ同じものである。日本書紀は、俀国を抹殺しているから、俀国の出来事を推古紀の出来事として記述していることが分かる。

 

 最後に、「阿毎王権」は仏教を積極的に受容し、仏教を敬う国であることを確認し、仏典の導入や、官位の制定が文字(漢字)を急速に普及させたのではないか、と佃氏は述べる。

 


<3章> 「阿毎王権」の歴史

 

 552年に物部麁鹿火王権から「阿毎王権」(13世物部尾輿が初代)に王権が交代している。その間百済新羅と戦っているが、百済援軍の見返りとしての人質の交代がスムースに引き継がれていることから、物部麁鹿火王権から「阿毎王権」への交代はスムースに行なわれたのではないかとする。理由は、13世物部尾輿が「物部氏」の本流であるので、物部尾輿から王権を渡すように言われて、物部麁鹿火王権は抵抗することなく、王権を渡したのだろうとする。それと共に、物部尾輿は「天子」となり、その下で物部麁鹿火王権は年号を建てられなくなるが、滅亡するのではなく存続しており、「秦王国」の王となっていることも示される。

 

 「任那復興」については日本書紀欽明紀に述べられている。554年百済聖明王が戦死し、王子餘昌(後の威徳王)を援助する。日本書紀欽明紀の記述では、この間に活躍しているのは「筑紫」の武将や「筑紫国造」や「筑紫の舟師」などであり、百済を援助しているのは九州の「阿毎王権」であることが確認できる。新羅は勢いを増し、ついに562年任那を滅ぼして、朝鮮半島南部を支配する。

 

 この後、「日羅(にちら)の事件」に触れている。肥後の芦北出身で百済の達率(第2位の高官)になった「日羅」は、日本の天皇の再度の要請により、583年に百済から天皇の下に来る。しかし、百済の秘密が漏れることを恐れて、百済の従者は「日羅」を殺害する。このとき、「日羅」の従者であり、配下に殺害を命じた百済の「恩率」と「参官」は、五島列島へ向けて出発する。その後、「恩率の船は風を被(う)けて海に没す。参官の船は津嶋に漂泊して乃ち始めて帰るを得る。」(日本書紀敏達12年)とある。小学館日本書紀では、この「津嶋」を対馬としている。対馬なら、通常の航路であり、漂泊とは言わないだろう。佃氏の言うように、「津嶋」は島原半島である。従者達の帰路は、有明海を通り、五島列島を通るルートである。

 「日羅」は「阿毎王権」に喚ばれて「阿斗」(飯塚市)に滞在し、帰国する時、故郷の肥後の芦北に寄るように、来るとき船を有明海に沿った佐賀市諸富町の「諸富津」に係留していた。だから帰路は、有明海を通り、五島列島を通るルートとなる。
 もし、大和に天皇が居るとしたら、百済に帰るために有明海を通ることがあり得るだろうか。

 

 次に、「阿毎王権」の重臣である蘇我稲目蘇我馬子が熱心に仏教を取り入れたことを、日本書紀の記事から確認し、蘇我稲目蘇我馬子の本拠地を特定している。蘇我馬子が585年に「大野の丘の北」に塔を立てた(日本書紀)、とある。また、推古天皇の「御陵は大野の岡の上に在り、後に科長の大陵に遷す。」(古事記)、とされている。稲目や馬子の本拠地等から考察して、この「大野の丘」は肥前の養父郡の朝日山ではないだろうか、と佃氏は述べている。

 

 九州新幹線鳥栖駅の近くにある朝日山は、朝日山城址という名の中世の山城跡として知られている。1332年に朝日氏によって築城され、その後大内氏によって支配され、後に島津氏によっても攻め落とされ、明治期には佐賀反乱軍の拠点となった。頂上の平地には、宮地嶽神社と古い墓石がある。ここからの眺望は素晴らしく、私達は登ってみて、何か神々しいような気配を感じた。昔に推古天皇の墓があったとしても不思議ではない。大きく広がった辺り一面の平野が一望できるこの地は、14世紀よりはるか昔の古代から要衝地であったに違いない、という確信のような感触が体全体に行き渡った。(失礼!この部分は、歴史ではなく、単なる私達の感想です)

 

 577年2月、百済の古都「扶余」で百済王昌(威徳王)によって「王興寺」が建てられた。その発掘調査が行なわれているという。日本書紀は、敏達6年(577年)11月「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工6人」を百済王が献じた、と記す。「敏達(阿毎)」についての記事である。また、崇峻元年(588年)何人かの僧と共に、寺工2人、鑪盤博士(金属鋳造の技術者)1人、瓦博士4人、画工1人が来ている、と記している。これらの寺工・瓦博士は「元興寺(がんこうじ)」を建立している。「元興寺」極楽坊の禅室(国宝)の建築部材は582年に伐採されたヒノキであると、元興寺文化財研究所が発表している。577年から来ている造仏工・造寺工などは、設計を終わり、582年頃から寺の建立に取りかかっているのだろう。

 

 『元興寺伽藍縁起』によれば、605年「尺(釈)迦丈六の像(銅・繍二躯)并びに挟侍を敬い造る」とあり、608年「大隋国の使い…裴世清、…来たり之を奉(あお)ぐ。明年(609年)…元興寺に坐(す)える。」とある。仏像を隋の「裴世清」が見ており、翌年に「元興寺」に坐えられる。「裴世清」は大和ではなく、俀国(「阿毎王権」)の筑紫に来ていることを前に確認している。従って「元興寺」も筑紫に建てられている。

 

 このことは、日本書紀推古17年(609年)4月と5月の次の記事からも分かる。僧を首長とする百済の人々が難破して、肥後の芦北の港に辿り着いた。本国に送り返そうとすると、対馬に着いたとき、「道人」ら11人がみな留まりたいと請うたので、「元興寺」に住まわせた、という記事である。これを手配しているのは「筑紫太宰」であると書かれている。「筑紫太宰」は、「阿毎王権」が設置し、筑紫を統治する機関であることから、「元興寺」は筑紫にあると言える。

 

 百済の「王興寺」は「一塔一金堂」形式の「四天王寺式伽藍配置」であり、「元興寺(がんこうじ)」も同じ「四天王寺式伽藍配置」である。「王興寺」を作った百済の「造仏工・造寺工」が、「元興寺」を設計しているからである。

 その後、「元興寺」は672年~677年の間に天武天皇が筑紫から大和の飛鳥に移築して、「一塔三金堂」の形式にし、「飛鳥寺」となる。「飛鳥寺」から出土した「瓦」、「勾玉・耳飾り・玉類」等は百済の「王興寺」から出土したものとよく似ているという。

 

 一般的には「元興寺」は「法興寺」と同じ寺であるとされていて、「法興寺」=「元興寺」=「飛鳥寺」とされている。しかし、「法興寺」≠「元興寺」であることは、日本書紀を読めば明らかである、と佃氏は述べる。古代史の復元シリーズ⑧『天武天皇と大寺の移築』には、そう考えざるを得ない根拠が詳しく書かれている。
 また、「飛鳥寺の創建」は「法興寺の創建」と同じであり、596年であると「考古学」もしている。この定説は、「土器(須恵器)の編年」を約80年も早くしているため、大問題である。そのため、同書では、最近の発掘調査から得られた瓦や土器、礎石などの考古学的資料などから、「法興寺」≠「元興寺」であることを詳細に述べられている。

 

 大宰府を訪れると、市街地に突然現れる水城に驚かされるが、観世音寺の宝蔵に入っても驚かされる。狭い空間の中に、京都や奈良にある仏像に勝るとも劣らないような多くの仏像がひしめき合っている。この観世音寺は一般には、斉明天皇のために天智天皇が創建したと言われている。しかし、創建は天武天皇であり、新たな観世音寺元正天皇が造っている。この詳しい経緯も、佃氏は同書の中で述べている。この他の寺についても述べられていて、上に掲げたような寺に興味がある方は、古代史の復元シリーズ⑧『天武天皇と大寺の移築』を読むと、多くのことを学ぶことが出来るのではないだろうか。

 

 以上の文書は、佃收著『新「日本の古代史」(中)』の中の論文【「九州の王権」と年号(その三)-「俀国(阿毎王権)」とその歴史-(『隋書』の「俀国」は九州の物部氏)】(64号)の要点を、作成委員会がまとめたものです。要点だけのこの文書では分かりづらいときは、ホームページで全文を見ることができますので、是非論文を見ていただきたいと思います。また、この文を読んで興味をもたれた方も、論文を読んで、もっと詳細な記述に接していただきたいと思います。

 

 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-

おわりに

 

 以上、5世紀の「倭の五王」から「物部麁鹿火王権」、「阿毎王権」と続く7世紀初頭までの歴史を、三つの佃論文に沿って学んできた。この文書は、その要旨をまとめたものである。この時代の解明のためには、「九州年号」を読み解いていくことが必要不可欠である。そのため、最初に私達が整理した「九州年号」論を示してみた。

 

 既存の古代史は、記紀の記述に沿って展開される。記紀天武天皇の指示により編纂された。天武天皇は「天氏」であるから、「天氏」以外で日本に渡来した「卑弥氏」の支配は載せようとしない。「邪馬壹国」の「卑弥呼」や「倭の五王」は「卑弥氏」であるから、記紀には登場しない。『魏志倭人伝、『後漢書』倭伝、『隋書』俀国伝などに「卑弥呼」が明確に書かれ、『宋書』に「倭の五王」が明確に記されている。このことを、日本書紀古事記の編纂者たちが知らないはずがない。更に、渡来人である崇神・景行・応神・仁徳天皇を、万世一系天皇の系譜に組み入れて記述している。

 

 記紀の編纂を天武天皇から引き継いだ持統天皇以下の天智王権は、神武天皇から始まる万世一系の王権は天智王権であるように、記紀を書き替えている。天武天皇天智天皇の弟にし、そのため天武天皇の父も舒明天皇ということになって、天武王権を創設した実際の「天武天皇の父」は記紀には登場しない。私達の目の前にある記紀は、この結果のものである。記紀の通りに歴史を述べれば、このようなことは分からない。もっと多くの資料を活用して、史実に迫らなければならないのではないか。

 

  記紀に書かれていることは一部矛盾していると思っても、古代史全体を説明するためには、やはり記紀の記述に従うしかない、と考えている人は多いのだろう。他に、全体を記述しているものがないからである。


 しかし、佃氏は様々な資料を駆使して、常にそう考える根拠と、時、場所を明示しながら、紀元前12世頃に長江流域に居たとされる「倭」と呼ばれた氏族がどのように日本に渡来して来たかから始めて、8世紀中頃までの日本古代史の基本的流れを叙述している。もちろん、一般論として言えば、これから新たな資料が発見されたりして、佃氏の結論が一部変更されることはあり得るだろう。大幅な書き換えが必要になることもあるかも知れない。しかし、記紀に書かれていることを鵜呑みにせず、時と場所を常に検討し、しかも記紀に書かれた内容を生かし、理由を明示して、私達も納得がいく日本古代史を構成している。私達が記紀の記述を生かしながら、史実に沿った古代史を構成しようとする際の、出発点を与えてくれる。作成委員会が佃氏の研究から多くを学ぶことができたように、多くの方々も学ぶことができるのではないかと考える。


 この文がそのような方々に少しでも参考になれば、大変嬉しく思います。また、『新「日本の古代史」(下)』所収の「「九州の王権」と年号(その四)~(その六)」についても、要旨をまとめた文を作成したいと考えています。この拙文を読んだ後に、佃氏の論文をじっくり読まれる方があることを願っています。

(平成29年12月、「日本古代史の復元」ホームページ作成委員会) 

 

日本古代史の復元 -佃收著作集-